「岩月謙司」を振り返る10 本を買わなかった訳6

前回から大分間があいてしまいましたが、「岩月の本を買わなかった訳」、今回が最終回の11.です。本当は、前回と一緒の記事にする予定だったのですが、前回が予想より長くなってしまったので分割しました。

理由11   元々の研究対象と現在の研究対象が違いすぎて論理に説得力がない

岩月は、よく「私は生物学者ですから」という前置きで話を進めます。確かに岩月の専門は、動物生理学・動物行動学・人間行動学(日本の論点・2004より)、とされています。これらの学問は、行動の根拠を生得的な特徴だけに求めるのではなく、後天的に培われた文化社会的な要素もある程度視野に入れているらしいです。そして岩月の一連の著作も、概ねそうした観点に基づいて書かれているそうな。(諸君! 2003年・11月号 田口亜紗の論考より引用)

この3つの分野のうち、前の二つの関連性はわかります。しかし、最後の「人間行動学」は、どうか?要は「私は生物学者だ!動物行動学者だ!人間だって動物だ!だから人間の行動だって分析できる!」という理論はどこまで正しいのか、疑問に思いませんか?何か、3段論法の罠のようなものを感じて、信じていいのか一瞬躊躇ってしまうのは私だけなのか。ここで、信頼性を判定するポイントは、「もともとの研究対象と人間との生物学的な距離・類似点・相違点」ではないのかと考えられます。

例えば、人間とボノボを比較した研究だったら信頼性は高いでしょう。人間とボノボは近縁種で、どちらも群れで生活しています。人間の近縁種でなくとも、細胞レベルの話であれば共通点は多いでしょう。大腸菌とカニと人間で、リボゾームの働きに違いがあるとは思えません。

で、岩月の研究対象は何かというとゾウリムシオオマリコケムシなんですよね。さらに細かくいうと「ゾウリムシとクロレラの共生について」。この二つの生き物の特徴を大まかにまとめてみると、

  • ゾウリムシ  単細胞生物で、無性生殖と有性生殖二つの方法で増える。単独行動し、他個体の影響を受けるのは有性生殖時のみ。
  • オオマリコケムシ 外肛動物で、やはり有性生殖と無性生殖の両方を行う。群体を作るがそれは無性生殖で。要は群体内の個体は全てクローン。

となります。どちらも単純な構造の、脳を持たない無脊椎動物で、他個体との協力やら敵対やらもなく、生殖行動もやはり単純。つまり、ほとんど反射や本能で生きていて、文化社会的な要素、「家族」・「社会」という概念がない生物なのです(当然「父親」という概念はない)。対して人間は、巨大な脳を持ち、群れで生活し、群れのメンバーやら宗教やらメディアの影響を大きく受ける高等動物です。要は、ゾウリムシと人間の行動に類似点はほとんどないのです。性行動については言わずもがな。「私は、ゾウリムシの行動を研究していた動物行動学者だ!人間の性行動だって分析できる!」という岩月の主張は、あまりに飛躍しすぎていて説得力がない、ということがお分かりいただけたでしょうか。

ゾウリムシの専門家が恋愛カウンセリングをしている」ということを、世間はどう評価してきたのか?と、記憶を掘り起こしてみましたが、特にどうともしてなかった気がします(疑問を表明していたメディア関係者は多分ゼロ)。別に岩月は、専門がゾウリムシであることを隠してはいなかったのですが、毎度毎度説明していたわけでもありませんでした(日本の論点・2004や、論座・2003.4月号でも書かれていない)。しかし、それにしても「何かヘンだ」と思った人は本当にいなかったのか、実に不思議です。もしかしたらいたのかもしれませんが、「ベストセラー連発作家」の前に、沈黙していた可能性が高そうです(又は上司に握りつぶされたか)。

じゃあ、お前はどう考えていたのか?と言われそうですが、私は、岩月の専門がゾウリムシであることは知っていました。が、あまり深く考えていませんでした。といいますか、「大学教授」という肩書きの眩しさの前に、「ゾウリムシ」が霞んでしまったような感じでした。ときおり「このバックボーンで本当にわかるのか?」と疑問に思うこともあったのですが、世間がほとんど無反応なので、気にする自分が神経質なのだ思っていました。

…この記事を書くために調べ直していて気づいたのですが、「生物学者」・岩月が教鞭をとっていたのは、「教育学部」なんですよね。別に、教育者でなければ教育学部で教鞭をとってはいけない、訳ではないのですが、なんか全てがちぐはぐな気がしませんか?「ゾウリムシが専門の生物学者が、教育学部で人間の性行動を研究し、恋愛や親子関係のカウンセリングをしている」って、今から考えると怪しさ爆発ですな。

 

 

 

 

「岩月謙司」を振り返る9 本を買わなかった訳5

理由10  「父と娘」の関係性にやたら執着している

岩月は、その著作全般にわたって「父と娘」の関係性に、異様に執着しています。もちろん、「母と息子」についても書いてますが(なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか  講談社プラスアルファ新書)、総合的にみて圧倒的に「父と娘」についての言及が多いのです。その執着が変な形で表れているのが、①父と娘の入浴、そして②父と娘のセックス、についての記述です。もー、気色悪い話が山盛りでした。

①父と娘の入浴

この記述は岩月の著作にしょっちゅう出てきます。もはや岩月理論の根幹とも言えるレベルです。これは「父が娘に対して性を超えた聖なる愛で接しているか見分ける方法」で、「◯歳まで父と一緒に入浴できたら正しい父性愛をもらった証拠」らしいのですが、不思議なことに、その「◯歳まで」の部分が著作によってバラバラなのです。ある本では「生理が始まるまで」なのに、別の本では「20歳になってもおかしくない」だったり。日本人女性の平均初潮年齢は、12歳前半(日本思春期学会)ということからすると、その差は8年。なぜこんなに開きがあるのか。この時点で何か怪しい。ちなみに、日本風呂文化研究会の調査(2018)によると、父と娘の入浴率は9歳の時点で50%です。そして欧米では、父と娘の入浴は性虐待として禁止されています。岩月理論が正しい、とすると「日本人女性の半分以上は正しい父性愛をもらっていない」、「欧米人女性は全員正しい父性愛をもらっていない」ということになってしまいます。これって、どうみても変ですよね?

また、岩月理論では「娘は父への信頼の証として、自分の体を父に見てもらいたくなる」、「恥ずかしさより、父親への信頼を優先させようとする」らしいのですが、

そんな訳あるかー!!フツーに恥ずかしいわー!わざわざ見せるか!ボケ!

としかいいようがない。えぇ、私は全く思わなかったのです、「身も心も見てもらいたい」なんて。いやー、この部分を初めて読んだ時は、ギョッとしましたよ、もう鳥肌立ちまくり。そしてその後、なぜか軽く落ち込んでしまいました。「私は、父性愛を十分にもらっていなかったのだろうか」と(もしかしたら、これも岩月の仕掛けたワナなのかもしれませんが)。この辺りは考えると泥沼にはまってしまうので、心を麻痺させて流し読みしていました。しかし、現在の性教育では「水着で隠れる部分(プライベートパーツ)は、親であっても侵入不可(見せたりなんだりしない)」とされていて、これは、岩月理論を真っ向から否定しています。性教育アドバイザーの方が、岩月理論をどうジャッジするのか、大変興味があります。

ちなみに、対談相手の漫画家・くらたまこと倉田真由美氏は、「中学生で父の入浴していると不審がられる」と、岩月理論に疑念を呈しています(珍しく)。そして娘の母になった現在、この理論に対して何か思うことはないのかと聞いてみたい。

それと岩月は、『娘が自分を守ってくれる「騎士」だとお父さんを認識すると、体から信頼のサイン、 つまり「娘のサイン」を出す』、『これこそがお父さんから「オス」を消滅させるサイン』と述べていますが、「娘のサイン」って具体的になんなんでしょう?フェロモン?視線?それとも言動?著書には、全く記述がありませんでした。「お父さん認定証」とは書かれてるものの具体的にはサッパリ。もっとまともに説明してくださいよ、一応学者の端くれなんだから。しかしこの「娘のサイン」、かなり危険なロジックだな、と今気づきました。性虐待の被害者に対して、悪意を持った人間が「お前が娘のサインを出さないからだ」等、難癖をつけることも可能なんですから。

蛇足ですが、岩月理論では「高校生になった息子が母と一緒に入浴するのは、単なるマザコン」だそうです。なんというダブスタ。そして「父性愛をタップリ」という表現もまた気持ち悪かったですねぇ。なんでわざわざ「タップリ」と、そこだけカタカナで書くんだよ…

②父と娘のセックス

この記述もやたらに多かったと記憶しています。とにかく猛烈に気持ち悪くて、おぞましくて、うんざり。もう、本を放り出して、その場から遁走したくなりました。でも、「ひょっとしたら、もしかしたら本当なのかもしれない」という思いが拭いきれず、ずるずると読み続けてしまったのです。一見矛盾なく、つるつると文章が続くので歯止めが効かないというか。ちなみに「母と息子のセックス」については一切合切記述はないです。これに関しては、気持ち悪すぎてそれ以外の感覚がまともに思い出せず、書けることがほとんどありません。すみません。

以上のような岩月の「父と娘」の関係への異常な執着からして、私は、きっとこの人にも娘がいて、それなりに問題意識や関心があるからなのかな〜、と思っていましたら、なんとこの人には娘がいない!と聞いてびっくり(息子が二人いるらしい)。一気に違和感が膨れ上がりました。なんでここまで「父と娘」にここまでフォーカスしているのか。別に、身近なところに関係者がいなければ、研究してはいけない訳ではないのですが、着眼点がおかしいんですよ。「娘の裸を見たら、父は勃起するか?」なんて発想、普通は出てきません。当然自分の娘にインタビューした訳でもなし。参考文献も一切なし。まともな調査結果もなし。岩月は女子学生相手にアンケートをとったらしいのですが、詳細な分析結果もなかった気がします。そもそも、女子学生は岩月から評価される立場ですから、岩月の顔色を窺ってその主張に合致する回答を返してくる可能性が大であり、アンケートとしての精度はあまり高くないのではないでしょうか。しかし、ここまで無い無い尽くしの理論に対して、編集者も校正者も何も言わなかったのが不思議です。そして、それがベストセラーになってしまったことも。心理学会からは無視されていたらしいですが、学会はきちんと批判しておくべきだったでしょう。

 

 

 

「岩月謙司」を振り返る8 本を買わなかった訳4

理由8 相談者のほとんどが若い女性

この項目は「性別」と「年齢」に分けて考えます。

性別について

岩月の著作に登場する相談者は、ほとんどが女性です。男性の相談者はゼロではないらしいのですが、少なくとも私の記憶には残っていません。つまり無視できるほどの少数派。

岩月理論によると「女性は親からたくさんの愛を必要とするために、親の影響をうけやすい」→だから女性の相談者が多い!のような流れでもって、岩月は「相談者が女性ばかり」という不自然さをカバーしようとしてる印象を受けます。私はすっかりこのロジックを信じてしまい、2003年頃は全く疑問を感じていませんでした。でも本当にそうなんでしょうか?「女性は親からたくさんの愛を〜」って、なんだか後づけっぽくて胡散臭いんですよね、客観的データもありませんでしたし。それに昨今の毒親ブームや、「虐待の連鎖」のルポを見ていると「親からの愛情」の影響に男女差はない気がします。
仮に、五百歩譲って岩月理論が本当だとしても、この偏りは不自然です。

年齢について

相談者の年齢のボリュームゾーンは20〜30代でした(そして前項で指摘したように女性ばかり)。10代が少数なのは、自発的に「相談」にやってくることが年齢的に不可能なこと、親権者の同意がないと相談に乗れないことが主原因だろうと推測されます。では、40代が少数なのは?50代以上の相談者が皆無なのはなぜ?「幼児期の心の傷が様々な問題を引き起こす」なら、戦争孤児である60歳以上の相談者がいてもいいはずなんですけどねぇ。なんででしょう?

岩月は「四十バカはなおらない」という聞きなれない言葉を使ってまで、40代以上の相談にのらないことを表明しています。この「四十バカはなおらない」、読んだ当時から、「こんな表現あったっけ?」と引っかかっていました。手持ちの電子辞書(デジタル大辞林・明鏡国語辞典第二版)で検索しても出てこないところをみると、どうも岩月の造語のようです。そこまでして、高年齢者の相談に乗りたくないんかい…編集者も校正者も「この表現はなんですか?」等突っ込まなかったんでしょうか。

理由9 相談者が美人ばかり

そうなんです!とにかくほぼ全員の容姿が中の上以上。ブスは一人もいませんでした。これ、立ち読み当初から猛烈に疑問でした。単に美人は恋愛の機会が多いからか?ブスはだめ恋愛をしないのか?それとも、美人はだめ男に引っかかりやすいのか?いくら考えても、納得のいく理由が思いつきませんでした。今になって考えると、多分岩月が相談者を選んでいたと思われますが、さてどうやって?直接研究室にやってくる相談者の容姿はわかりますが、手紙を送ってくる相談者の容姿はわかりません(以前にも書きましたが、岩月が相談の手紙を全て送り返していたとは思えない)。返信に「顔写真を同封してください」とでも書いてたんでしょうか?それ以外に思いつきません。

そして不快だったのが、岩月がこの人達の容姿を値踏みしていること。「人形みたいにかわいい」やら、「女優の〇〇似」やら…一つ一つだとたいしたことないんですが、積み重なってくるとイラっとくるんですよね。「それ、相談内容と関係あるんかい」って。(決して、自分の容姿と比較して僻んでいるわけではありません)そもそもこの人、他人の顔にアレコレいえるほどのご面相でしたっけ?中でも一番嫌だったのが(どの本だったか忘れましたが)、「こんなかわいい娘をもったら実の娘でもオンナを感じてしまうかもしれないなぁ、とお父さんに同情しながら話を聞いた」とかいう文でした。とにかく猛烈に気持ち悪くて、気持ち悪くて、大根がすりおろせる程鳥肌がたちました。…あれ?後の事件のことを考えると、これはもしかして「自白」だったのか?

 

 

 

「岩月謙司」を振り返る7 本を買わなかった訳3

さて、今のところコンスタントに更新中の岩月シリーズ(←この命名でいいのか?)第7回・本を買わなかった訳第3回です。20年近く前の騒動を今更?と自分でも疑問に思いますが、自分の書きたい!に忠実にいこうと思います。

理由6 著者の言動が矛盾している

具体的にいうと、やってる事がどう見てもカウンセリング」なのに、「私はカウンセラーではない、だからカウンセリングはしない」と書いていることです(その他にも私は精神科医・臨床心理士ではないとも表記有り)。じゃ、相談者とのやり取りはなんなんだというと、「茶飲み話・井戸端会議」だというのです。この姿勢が、立ち読み当初から疑問でした。どうしてこんなに往生際が悪いのだろう、見え透いたウソをつくのだろうと(相談者と岩月とのやり取りを読み返してみると、カウンセリングにしか見えない)。当時の自分なりの予測は、多分「保険」なんだろう、でした。「カウンセリングを受けたけど、効果がない」と苦情がきても、「私はカウンセラーじゃない、だから効果がなくても苦情は受け付けない」と突っぱねるための。にしても、ここまでしつこく繰り返すのは気になりました。

それに、本のあとがきには「手紙に返事がかけない・手紙は送り返している」等書いてありますが、岩月は研究室を訪れた相談者にお引き取りを願ったりはしてないのです。そのまま「相談」にのっています。なんなんでしょう、この違いは。この描写から推測できるのは、手紙を送り返している云々はポーズで、本当は返信したり相談に乗ったりしているのでは?ということ。そんな誤解を与えかねない記述です。いや、それを狙ってわざとこんな表記にしていた可能性すらあります。

一連の岩月記事を書くための下調べとして、ネット検索をかけたところ、なんと「カウンセラーの岩月先生」と紹介しているブログを発見してしまいました。…違うよ、岩月はカウンセラーじゃないよ、本人がそう明言しているのにも関わらず、カウンセリングしまくってたインチキ野郎だよ…(書いていたのは、岩月ブームが記憶に残っていない20代前半の人のようでした)

理由7 性的虐待についての関わり方が変

岩月は、児童性的虐待についてやたらと詳しいのに、被害者支援や防止活動等に携わっていないんですよね。作中で「AV並みのことをされている子もいる」等書いているのに、被害者のために何か動いた形跡はナシ。(前項で指摘したように、本人自ら「カウンセリングはしない」と明言)「こんなに酷い事がおこなわれている! 」のならば、大々的に世間に告発し、警察・弁護士・児童相談所等と連携して、被害者を救うべく動く。それが社会正義というものではないですか。しかし、岩月はショッキングな内容を羅列し、読者に衝撃を与えるだけで終わっているのです。これは「買わなかった理由2.」の「問題点を指摘はするが解決策を明示しない姿勢」、まんまです。岩月の著作全体を貫くスタイルが、ここでも現れているということです。これが、実に不可解でした。おまけに露悪趣味。「俺は、こんな事も知っている(聞き出せた)んだぞ!」と、踏ん反り返っているっつーか。それに、このスタイルでは被害者(相談者)が置き去りです。苦しい記憶を吐き出した相談者の立場は?彼女たちは、読者に衝撃を与えるための小道具ですか?

そもそも、言葉の選択もおかしい。著作中に「児童性的虐待」という単語は、確か使われていなかった気がします。代わりに使われていたのが「父のセクハラ」・「(性的)いたずら」という言葉。…なんと言いますか、「児童性的虐待」に比べるとライトな表現が使われていました。(セクハラの実態がライトということではなく、単純に語感の問題です)これが当時からほんのり不快でした。岩月は、「女の味方」という風に振舞っているのに、なんでこんな被害矮小化とも取れる表現をするのだろうと。いや、実際は敵だった訳ですが。

「岩月謙司」を振り返る6 本を買わなかった訳2

さて、前回に引き続き岩月本を買わなかった訳・第2弾でございます。今回は理由4.と5.です。

理由4 時々、意味不明な文がある

岩月本に、これまた頻出する文章として「あなたもうれしい、私もうれしい」という文章があります。パッと見、問題ナシ。というより普通にいいことを、ほのぼのと表現した文に思えます。しかし、私はこの文の説明が全く理解できなかったのです。

相手になりふりかまわず自分の好きなことをすれば、相手に気を使う必要がなくなり、あなたもうれしい、私もうれしい、という状況が出現する」

ということらしいのですが、この説明が、何回読んでも意味不明。「相手になりふりかまわず自分の好きなことをすれば」と「相手に気を使う必要がなくなり」が、どう考えても繋がらないんですよね。私の理解力が足りないのか?と思いつつ、注意して何度も読んでみても、やっぱり繋がらない、わからない。より先鋭化した文として「究極の利己が、究極の利他になる」というのもありました(説明もほぼ同じ)。これも同じくわからない。

上記の二つの文の説明として、例示されていたのが、ピアニストの例え。「ピアニストはピアノを弾くのが好き→どんどんピアノを弾く→聴衆はいい気持ちになる→ピアニストは嬉しくなってもっとピアノを弾く」という流れのようです。この部分だけ読むと「確かにそうだ」と、一瞬納得できます。が、それ以外にどんな状況で「あなたもうれしい、私もうれしい」が成立するのか?と考えると、全く頭に浮かばない。例えば、昨今話題の撮り鉄の皆様。彼らが「相手になりふりかまわず自分の好きなこと(いい写真を撮ること)」をした結果、どうなったか?というと、周辺住民とのトラブルが発生したり、鉄道会社が損害を受けたりした訳で。「相手に気を使う必要が〜」以下の状況は全く成立しません。あなたもうれしい、私もうれしい」が成立するのは、相当限られた状況だけです。「究極の利己が、究極の利他になる」に至っては、どうみても無理でしょう。

にも関わらず、上記の2つの文はしょっちゅう出てきます。しかも、さも成立して当たり前!の様な感じで。まるっきり意味不明なんですけど。なんだか、わかったようなわからんような、意味不明な理屈を丸飲みさせられているような不快感・消化不良感が酷く、それが嫌で、岩月本とは距離を置くに至りました。

理由5 「女は〜」という文章が時々不快

岩月本には「女(性)は〜」という文章も、やたらとたくさん出てきます。単純に、「だから女はダメなんだ」というニュアンスで使われてはいないのですが、何故だかこれらの文章群は、時々不快なのです(少なくとも私にとっては)。いくつか取り上げてみますと、

  1. 女性は(中略)男性が英雄体験を通して得る智恵を持つことはむずかしい
  2. 女性は決断することが苦手
  3. 女性のカンは、あくまでもその女性が興味を持っているものに限られる
  4. 女性は男性の応援団になるという方法で組織を維持してきた

などなど。私にとって一番不快だったのは、4.でした。「女は男を通してでなければ、間接的でなければ、社会参加できない半人前の未熟者」だとレッテルを貼られた気がしたのです。その昔、女性参政権が認められなかった理由の一つとして、「女の利権は男(父・夫)の利益に含まれるから女に参政権は無用」というものがあったらしいのですが、あたかもそれを正当化する様な不快な理屈。

1.2.は、事実を述べているように見えて女を見下していますし、そもそもデータも何も例示されていませんでした。3.からは、どうも女をリスペクトしている振りをしながら、ほんのり見下している感が透けて見えてきませんか?こんな文章は他にも複数ありまして、読んでいて地味に不快で読めなくなっていました。

 

 

「岩月謙司」を振り返る5 本を買わなかった訳1

一番最初の岩月関連記事に、「岩月の本にはまったが、一冊も買わなかった」と、書きました。その買わなかった理由、違和感・疑問・引っ掛かりを感じたポイントを、今回から順次書いていこうと思います。まず、ざっと書き出してみたら、以下になりました。

  1. とにかく文章が気持ち悪い
  2. 「問題点を指摘はするが解決策を明示しない姿勢」が嫌
  3. いくら読んでも救いがない
  4. 時々、意味不明な文がある
  5. 「女は〜」という文章が時々不快
  6. 著者の言動が矛盾している
  7. 性的虐待についての関わりが変
  8. 相談者のほとんどが若い女性
  9. 相談者が美人ばかり
  10. 「父と娘」の関係性にやたらと執着している
  11. 元々の研究対象と現在の研究対象が違いすぎて、説得力がない

意外に多いですね。この11個の理由のうち、2.と3.は以前のブログ記事で書いたので、残りの9個の理由について書いていきます。

理由1 とにかく文章が気持ち悪い

ええ、そうなんです。この人の文章は、とにかく、とにかく気持ち悪いんです(絶叫)!!っけからフィーリング全開で恐縮ですが、それ以外に適切な表現が見当たらないのです。どのくらい気持ち悪いかというと、立ち読みしていてゾゾっと鳥肌が立ったことが一度や二度ではない、くらい。自分の身体反応にビビりつつ思ったのは、「何コレ?なんでこんなに気持ち悪いの?」という疑問。そして「こんな本、部屋に置きたくない」と即座に決断。なんだか部屋の空気が汚染されそう、というか生臭い何かが、じっとりと染み出ていくような感じがしたんですよね。もちろん「印税払いたくない」とも思ったのですが、「気持ち悪い」の理由の方が5倍くらい強かったです。実はこれが私が「岩月の本を買わなかった最大の理由」だったりします。

しかし、この人の文章には「気持ちいい」という単語が頻出するのに、当の文章はとにかく気持ち悪い。例えば、「女性は、体を使った気持ちいいことが好きです」みたいな。なぜかこの文からは、トレッキングやフラメンコといった「健全」なことは想像しづらい。R18な単語は全く出てこないのに、なぜか淫靡な気配がするんですよ。一体これはなぜなのか。一つヒントになるのは、「悦び」「一体化」という単語が、「気持ちいい」とセットで、そして同じくらい使われていること。さらに、これら以外の表現はほとんど出てこないということ。いくらでも類似表現はあるのに(心地よい・気分爽快・喜び・歓び・慶びetc)、使われていないのです。

この手の文章が積み重なった結果、本全体が気持ち悪くなってしまったのでしょう。なんというか、性行為をけしかけられているような気がするんですよね。いや、そもそも岩月の著作全体からはどうも「セックス至上主義」のような空気が漂っています。まるで、「いいセックスは全てを解決する」かのような(ダイエット成功! という話はあった)。そりゃなんであれ、悪いよか良い方がいいだろう、と思うのですが、なんでここまで人様の性生活に首を突っ込みたがるのか。その時点でキモい。そして最初に紹介した「私を信じなくても良いが決して幸せになれない」という言葉。「心に傷を負った女性は、恋人選びに失敗してしまう」という理論。おまけに著書には「精神的指導者は、すぐれていればいるほど理知的な顔はしていないものです。どこにでもいるような人の良さそうなオジサンという感じです。」なんて書いてあるんですが、多分これは岩月本人のこと。これらから導き出されるのは、

「岩月の理想とするセックスをしなければ幸せになれない。そしてその相手には、岩月がふさわしい」

という結論です。要は、岩月の主張は「ワイと理想の一発をヤったらALL解決やで!」(←鼻息荒く迫ってくる)なんですよ。これを「親切さ」で隠しつつ、「相談」に乗り、あわよくば! を狙っているのを、私は無意識に感じ取った。だから「気持ち悪い!」になったのでしょう。

しっかし、よくもここまで気持ち悪い文章が書けるもんだなぁ、と半ば呆れます。もはや才能では?(注・ほめてない)そしてワイと〜」の理屈、なんかに似てるな〜と思ったら、逮捕二度目の一夫多妻男の理屈とほぼ一緒でした。そうか、この2人は同類だったか…

「岩月謙司」を振り返る3

鬱々としながらも、岩月の本を読み続けた私。しかし、読んでも読んでも「過去の傷を癒す具体的な方法」が見当たらないのです。たまに効果がある(ありそうな)方法を見つけても、よく考えると実現不可能なものだったり(保育園の担任の先生をどうやって探せと?)、単なる精神論だったり(’心の持ち方を変える’程度で、解決するのか?)。この辺り(2004年5月頃)から、心境に変化が現れました。(多分)対処法が載っていないであろう、絶望するだけの本なんて読んでも無駄なんじゃないか?と思い始め、立ち読み自体しなくなっていったのです。これが第一の転換点でした。

そして第二の転換点が来たのが、その年の夏頃。私は某ジャンルの女性向け恋愛小説にハマりだしました(小遣いの大半を突っ込むレベルで)。もう、その小説の楽しいことと言ったら! 岩月の本を読んで絶望するより、華やかな夢夢しい恋物語を楽しく読むほうが、金も時間も有効に使えると気づいてしまったのです。そしたら、岩月の本なんてもう読まない(笑)。本が手元にないのが幸いしました。手元にあったら絶対読み返していたでしょう。そうだったらどうなっていたことやら。

そして2004年12月、岩月逮捕。このニュースそのものも衝撃でしたが、私としてはTVで流れた映像の方が衝撃でした。具体的には

岩月教授がショートパンツ姿の相談者(若い女性)を肩車している

映像。そしてその女性は、ショートパンツの下は素足、つまりストッキングもタイツも履いていない、太もも丸出しの状態だったのです。見た瞬間、

うわっ、キモっ ! !

っと鳥肌。「これは絶対に何かがおかしい」と直感しました。いや、「相談者の傷を癒すための方法」として肩車をすることがある、というのは本読んで知ってたんですけど、実際映像で見てみると「キモい」としか言いようがなかった。逮捕の一報を聞いたときは、まだ「冤罪?勘違い?」と思っていたのですが、そんな考えを吹っ飛ばしたのがこの映像でした。百聞は一件にしかずとはよくいったものです。まぁ、「カウンセリングの一環」でサエない壮年男性が娘でもない、ショートパンツ姿の成人女性を肩車する、という状況は異様ですな(レスリングの浜口親子とは状況が違いすぎる)。んで私、これ以降は岩月本とはきっぱり縁を切りました。そしてこの件が世間どのような扱いで報道されるか、ということを大変興味深く見守っていました。特にフェミニズム界隈の動向に注目して。

 

「岩月謙司」を振り返る2

前回の記事で、なぜか私は「岩月の本にどっぷりハマってしまった」と書きました。その結果わかったことは何か?というと、この人の書く本は

「読めば読むほど不幸になる本」

だということです。どっかの怪談かよ!って感じですが、本当です。身の回りで怪奇現象が!とか、家にドロボーが!という方向ではなく、メンタルの面で。この人の本って、読めば読むほど絶望する本なんですよ。読んでいて問題解決の糸口が見つかった!と、ホッとすることも無くは無い。のですが、ショッキングで絶望的な内容がその何倍もあるのです。+10の発見をした後に、−200の発見をしてしまったようなもの。だからハマっていたという表現はヘンですね。まーったく楽しくなかったのですから。蟻地獄に引きずり込まれるような、憂鬱な読書タイム。こんなに楽しくない読書タイムは小学生の頃、戦争犯罪の本を読みまくっていた時以来でした。

んじゃ、なんで読み続けてしまったのか?といいますと、作中のある一文の影響が大だったと、今なら言えます。どの本だったか忘れましたが、確か

「幸せな恋をするためには、自分の過去の傷を癒さなければいけない。そのままでは間違った相手を選んでしまい、結果として不幸になる」

のような文でした(うろ覚え)。これがとにかく衝撃でして、衝撃のあまり直後に虚脱してしまい、その状態でまんま無批判に受け入れてしまいました。当然ですが、誰だって不幸にはなりたくない。じゃあ幸せになるには?どうしたら?→そうだ、過去の傷を癒そう!→その方法をこれらの本から汲み取るのだ!何としても見つけなくては!との流れでもって、強迫観念に駆られて読んでいましたね。もう目を皿のようにして。父がだめ男だった訳ではなく、だめ恋愛をしたこともなかったのに心の傷があるのか?と、不思議に思います。しかし約20年女やっていると、それ故に遭遇した嫌なことがそれなりにあるわけで。もしや、そのことなのか?と思ってしまったのです。

また

私を信じなくても良いが、絶対幸せにはなれない」

という文もありまして。今だったら、「これって脅し?そもそもアンタ何様?」と突っぱねられるのですけど、当時は「た、大変だー!なんとかしなくては! 」と逆に危機感を覚えてしまい、ますます切羽詰まって焦燥感に追い立てられて読んでいました。

「岩月謙司」を振り返る1

「岩月謙司」という人物を覚えている人、いますか?

「誰それ?」「ンな奴、知らねーよ」となる人が大半だと思いますが、「思い残し症候群」・「幸せ恐怖症」という言葉を思い出す人が、極少数いるかもしれません。それよりも「育て直し療法」の衝撃映像でしょうか?

この人は今から20年ほど前(2000年前後)に、恋愛指南本のベストセラーを飛ばしていた元・大学教授です(詳しくはコチラ)。その頃はちょうど男女の性差を論ずるハウツー本の出版が相次いでいて、その流れに乗る形でメディアに登場した感じの人でした。著作数は、Wikipediaを見ていただければ分かる通りの多さです。

そしてこれらの本の大半が、出版不況もどこ吹く風、とばかりにベストセラーになりました。その後準強制猥褻で逮捕され(2004年)、大学を解雇され、裁判で有罪が確定(2009年)し、世間から忘れ去られていくという末路を辿ろうとは想像もできません。はっきり言って「過去の人」です。

なんで今更、そんな人についての記事を書いたのか?といいますと、まぁ、色々と思うところがあるのですよ。男とは~、女とは~という決めつけが頻発する本がベストセラーな事にダンマリなフェミニストやら、作者と対談しながら有罪確定に対してほっかむりな共著者やら、「売れるから」と、根拠の怪しい俗流心理学の本を刷りまくっておきながら、有罪確定後も検証も反省もしない出版業界に対して。特に出版社に対しては、最近のヘイト本出版ラッシュにも通じるものがある気がします。

それに、#Metoo運動が展開され、「男性脳」「女性脳」という言葉を使った本がベストセラーとなっている現在、もう一度この人物について考えてみたら新たな発見があるかもしれない、と考えたからです。

さて、2000年当時成人するかしないか、だった私は当初「なんか最近、この人本出しまくってんなぁ」くらいしか思っていませんでした。元々そんなに興味なかったのです。むしろ、世に溢れる「男女差異本」には疑いの目を向けていた方でした。「ホントウか〜?」と、一応理系らしく。しかし「岩月本」はちょこっと立ち読みしただけなのに、なぜかどっぷりハマってしまったのです。当時「だめ恋愛」なんて全くしておらず、親子関係だって悪くはなかったにも関わらず。

一体なぜ?Why?

平易な読みやすい文体のためか、自分の意識が作中の相談者に同化してしまったからか、所々に出てくる「それっぽい」理論や用語が、一見科学的で説得力があったからなのか。いまだに理由はよくわかりません。

そして、気がついたら出版される著作を本屋で片っ端から立ち読みしまくっていた、という訳です(←んな暇あったら勉強せんかい)。結果、理系の端くれであるにも関わらず、一時期その理論を8割方信じていました。所々違和感や疑問、引っ掛かりを感じてはいましたが(だから8割)、ページをめくる手が止まりませんでした。この状態が2004年の6月頃まで続いたのです。

さて、ハマってしまったと書きましたが私、実はこの人の本、一冊も購入していません。All立ち読み(新刊or古本)、または図書館です。しかし今になってつくづく思うのは、

買わなくて、よかった ! !

です。えぇ、本当に。性犯罪者に金渡すなんて冗談じゃない。それに上記で著者が逮捕された、と書きましたが実はこの人、逮捕後数年間裁判で無罪を争って、なんと最高裁まで行ってるんですよね。そこまで争うには、当然多額の費用がかかります。弁護士費用、etc、etc…そのカネどっから出したんだ?って本の印税しか思いつきません。何たってベストセラー本の作者です。つまり恋愛指南本で稼いだ印税を、強制猥褻の無罪判決を得るために活用したってことです。まぁ、個人のカネを何に使うかは個人の勝手ですがね。

それ、フツーやるか?

まともな神経してたらできないと思うのですが。道義的にも、世間体的にも。まぁ、この行為そのものが、この人の人間性を証明な訳で。もし私がこの人の本を買っていたとしたら、大ショックだったでしょう。しばらく自己嫌悪で身動き取れない位に。ですから、本当に買わなくてよかったなぁ、としみじみ感じます。この点に関しては、自分で自分を褒めてあげたい! !(ドヤ顔)