ネットDE知識上書き2 アスワン・ハイ・ダムの弊害

前回に続きまして「ネットDE知識上書き」の第2弾は、アスワン・ハイ・ダムの弊害です。

アスワン・ハイ・ダムとは、エジプトのナイル川に作られた巨大ダムです。詳しくは、こちらから。私がこのダムのことを知ったのは、やはり小学生の頃。このダムが出来たことで、ナイル川の洪水がなくなったため、人や家が押し流されることもなくなりました。川の流れが穏やかになったため、クルーズ船による観光も行われ、ダム湖では水力発電も出来て万々歳!

とはいかないんですよね。

光には影が従うもの。いいこともばかりではなく、当然悪いこともあった訳です。

悪いことの一つが感染症の流行。

この感染症ですが、小学生当時は、マラリアだと勝手に思っていました。私が読んだ本には、単に「感染症」としか書かれていませんでした。それ以外の熱帯病を知らなかった、というのもあるし(所詮小学生)、ダムができる→四六時中水がある→ヤブカ大発生、というプロセスが即座に頭に浮かび、「むしろそれ以外に何があるの?」という感じでした。

そして、マラリアだと思い込んで20数年経過…なんと寄生虫だったことがネット上の情報で判明。それは「ビルハルツ吸血虫」という寄生虫でした。Wikipedia文学で名高い、日本住血吸虫と同タイプのいわゆる「住血吸虫」。皮膚を食い破って感染するタイプの寄生虫です。ナイル川の洪水がなくなったため、中間宿主の巻貝が大繁殖してしまい、結果感染者激増、という次第だそうで。

知ってまず、「寄生虫って感染症に分類されるんだー」と妙に感心してしまいました。「感染症」といったら、細菌やウイルスしか浮かばなかったので。それに意外だったのが、この手の寄生虫の感染経路です。皮膚を食い破って体内に侵入するなんて、意外過ぎの上に厄介なことこのうえない。寄生虫といったら口から入るもの、だとばかり思っていましたので、とにかく驚きでした。それに症状が多彩すぎるし、実に深刻。私、これまで寄生虫にはどこかユーモラスなイメージすら持っていたのですが、認識を改めましたよ。寄生虫怖えぇぇぇ ! !

なんで、寄生虫にユーモラスなイメージが付いていたのか?寄生虫博士・藤田絋一郎氏の影響か、はたまたサナダムシダイエットのイメージか。勿論腸管に寄生するタイプの寄生虫も、栄養障害を引き起こすので、途上国への食料支援の大きな妨げになっていることは知ってました(いくら食糧を支援しても寄生虫が吸収してしまうので、人の栄養状態が改善しないから)。しかし、住血吸虫症の悪影響はその比じゃないですね。

ネットDE知識上書き1 ツァボの人喰いライオン

さて、「子供の頃、読書で仕入れた知識をネットDE修正」の回。まずは①ツァボの人喰いライオンから。

どんな出来事だったか?詳しくはこちらをどうぞ。大雑把に説明すると、1898年の東アフリカに現れた、2頭の人喰いライオンの話です。

私が小学生の頃、読んだ本には「この2頭はメス」と書いてありました。

普通、群れから離れて行動するライオンはオス、だということは、動物好きの私は当時すでに知っていました。なので、メスだけで群から離れるなんてライオンにしては珍しいな、と思いました。がその時は、「人喰い」という規格外の個体なのだから、行動も規格外なんだろうとすぐに納得してしまいました。

しかし、実はオスだったことがWikiの記事で判明

実は、このツァボという地域に住むライオンは、オスのたてがみが薄かったり、全くなかったりするそうです。蒸し暑い気候のツァボに適応するため、こう進化したらしい、とのこと。

確かに、リンク先のwikiの剥製の写真を見ても、2頭ともほとんどたてがみがありません。よく知らない人が見たら、メスだ、と思うでしょう。たぶん約40年前には、たてがみ云々の情報は入ってきていなかっただろうから、写真の見た目から判断して、2頭はメス、という記述になってしまったのかもしれません。やっぱり、いくら「人喰い」という規格外の個体でも、ライオンとしての行動はセオリー通りだったのですねぇ。メスだけで群れから離れるようなことはない、と。

ブログが書けない!

更新が途絶えまくりなこのブログ、もはや季刊報告な方がいいんじゃね?と、自分でも言いたくなります。いや、そもそも読者様がいるのかどうかも不明ですが。何はともあれ、久々の更新です。

書けなかった理由1

ぶっちぎりで書きたいネタがなかった、というのがまず一点。書きたい‼︎というネタは複数あったのですが、どれもどんぐりの背比べ状態だったのです。「書きたい度50」くらいのネタが5・6個ある状態で、一体どれから書けばいいのやら自分でもわからない。いつもならば、そのいくつかを頭の中で転がしているうちに、「書きたい度80」位に成長するのが一つくらい出てくるので、それを書くのですが、それができませんでした。脳内ネタ転がしはなんとかできても、きちんとした文章になってないのです。この辺は、理由2とも関連しています。

書けなかった理由2

書かないことはあまりに楽なので、それに慣れてしまうと二度と書けなくなる

アメリカの作家、ジョン・アップダイク

まさにこれでした。楽なんですよ。本当に!書かないことはラクなんです!頭を使わないのはラクなんです!!脳内ネタ転がしをきちんとした文章に練り上げるのには、当然頭を使うわけですが、それなりに大変で苦しいです。しかーし、同じ位楽しくてワクワクしてしまうのも事実です。いつもはなんとか、楽しい>>大変という状況に誘導して書いているのですが、疲労やストレスのせいかそれができなかったのです。

書けなかった理由3

ネット検索依存症になってしまったこと。と言うより、ブログを書く気力も時間も捻り出せず、さりとてぼーっとするのももったいない、という心理状態で、何かしなくては!と焦った結果飛び付いたのが、ネット検索でありました。ぼーっとするより、ネット検索してた方が何か生産性がある?と錯覚してしまったのです。そして、ずるずるとやめられない→余計に思考力低下・眼精疲労・睡眠不足→さらに何もできない、という悪循環でした。

理由3からのネタ拾い

ですが、ネット検索しまくっているうちに気づいたことがありました。それは、

その昔(主に小学生時)、読書で仕入れた知識のうち、実は間違っていたor思い込みだったものがいくつかあった 

ということでした。代表的なのが、①ツァボの人喰いライオンと②アスワン・ハイダムの弊害の2つです。何がどう間違っていたのか?それを次回から書こうと思います。

「岩月謙司」を振り返る3

鬱々としながらも、岩月の本を読み続けた私。しかし、読んでも読んでも「過去の傷を癒す具体的な方法」が見当たらないのです。たまに効果がある(ありそうな)方法を見つけても、よく考えると実現不可能なものだったり(保育園の担任の先生をどうやって探せと?)、単なる精神論だったり(’心の持ち方を変える’程度で、解決するのか?)。この辺り(2004年5月頃)から、心境に変化が現れました。(多分)対処法が載っていないであろう、絶望するだけの本なんて読んでも無駄なんじゃないか?と思い始め、立ち読み自体しなくなっていったのです。これが第一の転換点でした。

そして第二の転換点が来たのが、その年の夏頃。私は某ジャンルの女性向け恋愛小説にハマりだしました(小遣いの大半を突っ込むレベルで)。もう、その小説の楽しいことと言ったら! 岩月の本を読んで絶望するより、華やかな夢夢しい恋物語を楽しく読むほうが、金も時間も有効に使えると気づいてしまったのです。そしたら、岩月の本なんてもう読まない(笑)。本が手元にないのが幸いしました。手元にあったら絶対読み返していたでしょう。そうだったらどうなっていたことやら。

そして2004年12月、岩月逮捕。このニュースそのものも衝撃でしたが、私としてはTVで流れた映像の方が衝撃でした。具体的には

岩月教授がショートパンツ姿の相談者(若い女性)を肩車している

映像。そしてその女性は、ショートパンツの下は素足、つまりストッキングもタイツも履いていない、太もも丸出しの状態だったのです。見た瞬間、

うわっ、キモっ ! !

っと鳥肌。「これは絶対に何かがおかしい」と直感しました。いや、「相談者の傷を癒すための方法」として肩車をすることがある、というのは本読んで知ってたんですけど、実際映像で見てみると「キモい」としか言いようがなかった。逮捕の一報を聞いたときは、まだ「冤罪?勘違い?」と思っていたのですが、そんな考えを吹っ飛ばしたのがこの映像でした。百聞は一件にしかずとはよくいったものです。まぁ、「カウンセリングの一環」でサエない壮年男性が娘でもない、ショートパンツ姿の成人女性を肩車する、という状況は異様ですな(レスリングの浜口親子とは状況が違いすぎる)。んで私、これ以降は岩月本とはきっぱり縁を切りました。そしてこの件が世間どのような扱いで報道されるか、ということを大変興味深く見守っていました。特にフェミニズム界隈の動向に注目して。

 

「岩月謙司」を振り返る2

前回の記事で、なぜか私は「岩月の本にどっぷりハマってしまった」と書きました。その結果わかったことは何か?というと、この人の書く本は

「読めば読むほど不幸になる本」

だということです。どっかの怪談かよ!って感じですが、本当です。身の回りで怪奇現象が!とか、家にドロボーが!という方向ではなく、メンタルの面で。この人の本って、読めば読むほど絶望する本なんですよ。読んでいて問題解決の糸口が見つかった!と、ホッとすることも無くは無い。のですが、ショッキングで絶望的な内容がその何倍もあるのです。+10の発見をした後に、−200の発見をしてしまったようなもの。だからハマっていたという表現はヘンですね。まーったく楽しくなかったのですから。蟻地獄に引きずり込まれるような、憂鬱な読書タイム。こんなに楽しくない読書タイムは小学生の頃、戦争犯罪の本を読みまくっていた時以来でした。

んじゃ、なんで読み続けてしまったのか?といいますと、作中のある一文の影響が大だったと、今なら言えます。どの本だったか忘れましたが、確か

「幸せな恋をするためには、自分の過去の傷を癒さなければいけない。そのままでは間違った相手を選んでしまい、結果として不幸になる」

のような文でした(うろ覚え)。これがとにかく衝撃でして、衝撃のあまり直後に虚脱してしまい、その状態でまんま無批判に受け入れてしまいました。当然ですが、誰だって不幸にはなりたくない。じゃあ幸せになるには?どうしたら?→そうだ、過去の傷を癒そう!→その方法をこれらの本から汲み取るのだ!何としても見つけなくては!との流れでもって、強迫観念に駆られて読んでいましたね。もう目を皿のようにして。父がだめ男だった訳ではなく、だめ恋愛をしたこともなかったのに心の傷があるのか?と、不思議に思います。しかし約20年女やっていると、それ故に遭遇した嫌なことがそれなりにあるわけで。もしや、そのことなのか?と思ってしまったのです。

また

私を信じなくても良いが、絶対幸せにはなれない」

という文もありまして。今だったら、「これって脅し?そもそもアンタ何様?」と突っぱねられるのですけど、当時は「た、大変だー!なんとかしなくては! 」と逆に危機感を覚えてしまい、ますます切羽詰まって焦燥感に追い立てられて読んでいました。

「岩月謙司」を振り返る1

「岩月謙司」という人物を覚えている人、いますか?

「誰それ?」「ンな奴、知らねーよ」となる人が大半だと思いますが、「思い残し症候群」・「幸せ恐怖症」という言葉を思い出す人が、極少数いるかもしれません。それよりも「育て直し療法」の衝撃映像でしょうか?

この人は今から20年ほど前(2000年前後)に、恋愛指南本のベストセラーを飛ばしていた元・大学教授です(詳しくはコチラ)。その頃はちょうど男女の性差を論ずるハウツー本の出版が相次いでいて、その流れに乗る形でメディアに登場した感じの人でした。著作数は、Wikipediaを見ていただければ分かる通りの多さです。

そしてこれらの本の大半が、出版不況もどこ吹く風、とばかりにベストセラーになりました。その後準強制猥褻で逮捕され(2004年)、大学を解雇され、裁判で有罪が確定(2009年)し、世間から忘れ去られていくという末路を辿ろうとは想像もできません。はっきり言って「過去の人」です。

なんで今更、そんな人についての記事を書いたのか?といいますと、まぁ、色々と思うところがあるのですよ。男とは~、女とは~という決めつけが頻発する本がベストセラーな事にダンマリなフェミニストやら、作者と対談しながら有罪確定に対してほっかむりな共著者やら、「売れるから」と、根拠の怪しい俗流心理学の本を刷りまくっておきながら、有罪確定後も検証も反省もしない出版業界に対して。特に出版社に対しては、最近のヘイト本出版ラッシュにも通じるものがある気がします。

それに、#Metoo運動が展開され、「男性脳」「女性脳」という言葉を使った本がベストセラーとなっている現在、もう一度この人物について考えてみたら新たな発見があるかもしれない、と考えたからです。

さて、2000年当時成人するかしないか、だった私は当初「なんか最近、この人本出しまくってんなぁ」くらいしか思っていませんでした。元々そんなに興味なかったのです。むしろ、世に溢れる「男女差異本」には疑いの目を向けていた方でした。「ホントウか〜?」と、一応理系らしく。しかし「岩月本」はちょこっと立ち読みしただけなのに、なぜかどっぷりハマってしまったのです。当時「だめ恋愛」なんて全くしておらず、親子関係だって悪くはなかったにも関わらず。

一体なぜ?Why?

平易な読みやすい文体のためか、自分の意識が作中の相談者に同化してしまったからか、所々に出てくる「それっぽい」理論や用語が、一見科学的で説得力があったからなのか。いまだに理由はよくわかりません。

そして、気がついたら出版される著作を本屋で片っ端から立ち読みしまくっていた、という訳です(←んな暇あったら勉強せんかい)。結果、理系の端くれであるにも関わらず、一時期その理論を8割方信じていました。所々違和感や疑問、引っ掛かりを感じてはいましたが(だから8割)、ページをめくる手が止まりませんでした。この状態が2004年の6月頃まで続いたのです。

さて、ハマってしまったと書きましたが私、実はこの人の本、一冊も購入していません。All立ち読み(新刊or古本)、または図書館です。しかし今になってつくづく思うのは、

買わなくて、よかった ! !

です。えぇ、本当に。性犯罪者に金渡すなんて冗談じゃない。それに上記で著者が逮捕された、と書きましたが実はこの人、逮捕後数年間裁判で無罪を争って、なんと最高裁まで行ってるんですよね。そこまで争うには、当然多額の費用がかかります。弁護士費用、etc、etc…そのカネどっから出したんだ?って本の印税しか思いつきません。何たってベストセラー本の作者です。つまり恋愛指南本で稼いだ印税を、強制猥褻の無罪判決を得るために活用したってことです。まぁ、個人のカネを何に使うかは個人の勝手ですがね。

それ、フツーやるか?

まともな神経してたらできないと思うのですが。道義的にも、世間体的にも。まぁ、この行為そのものが、この人の人間性を証明な訳で。もし私がこの人の本を買っていたとしたら、大ショックだったでしょう。しばらく自己嫌悪で身動き取れない位に。ですから、本当に買わなくてよかったなぁ、としみじみ感じます。この点に関しては、自分で自分を褒めてあげたい! !(ドヤ顔)

「飲食店従業員」の怪

私、10歳ごろからニュースをみていて、漠然と疑問に思ったことがあります。それは、

なぜ飲食店従業員は、しょっちゅう事件に巻き込まれるのか?

ということ。なぜそう思ったかというと「飲食店従業員の〇〇さんが、どこそこで遺体で発見されました…。」等のニュースが、やたらと多いから。飲食店、つまりファミレスや居酒屋は、そんなに危険な所だったのか?一体なぜ?と思いまして。しかし、その理由が全く考えつかない(子供だったし)。なんでだろう?とずっと疑問に思い続けていました。

やっと真相がわかったのは、約10年後でした(きっかけは忘れました)。ニュースで「飲食店従業員」と表現する場合、それはフツーのファミレス・居酒屋の店員ではなく、大半が

キャバクラ・高級クラブ・ホストクラブの従業員

なのだということが。まぁ、確かに飲食店、なのだが、メインが「飲食」ではない飲食店(なんじゃ、そりゃ?)。要は異性にチヤホヤしてもらう事がメイン、というか酒と金を媒体に、男女の生臭い欲望が渦巻く店で働く人々であったと。そりゃ一般社会よりも人間関係が拗れやすく、従って事件に発展する確率も、一般社会より高いはずですわ。と、アッサリ納得してしまいました。10年弱悩んだ割に、いともアッサリ。

この「飲食店従業員」という曖昧な表現は、まともなレストランや定食屋に失礼だ ! 別の呼び方をしよう! と主張しているコラムニストがいたと思いますが、その主張には全面的に同意します。真っ当な「飲食店」への風評被害が起きかねません。しかし、なんと表現すべきか、適正な代用語が見つからないのがネックです。(淫食店、なんつー表現も目にした事がありますが、これは口頭では表現しきれないですよね)

コロナ禍の現在、「夜の店」やら「接待を伴う飲食店」という、無意味に婉曲的、というか表現しきれてない言葉を聞いて思い出した出来事です。

P.S 「夜の店」を文字通り解釈したのか、「夜は危険だから、昼に来ました☆」という人をTVで目撃した時は、内心ズッコケました。この人何もわかってない…と。曖昧すぎる表現の生んだ弊害ですかねぇ?

口がきけない子の話10 喃語

この「口がきけない子の話」シリーズの「1」にて、「Mさんが人語を話しているのを聞いた事は、一度もない」と書きました。なぜ「人語」、とわざわざ書いたのか?といいますと、彼女はそれ以外だったら時々口にしていたからです。独り言で。んじゃ、何語を話してたのか?といいますと、それは

喃 語

要は赤ちゃん言葉ですね。具体的には「アー」・「ウー」と、かなり小さな声でしたが発していました。言葉、というより音声、というべきか。特に意味のある言葉は発していませんでした。私の感想は、

「へぇ、そんな声してるんだ」

というもの。そして

「あぁ、この子は赤ちゃん言葉しか話せないんだな」

と直感。ついで心に浮かんだのは、

「頭の中も赤ちゃんなんだろうか?」

という疑問。「声は出せるが言葉にならない」理由が、「言葉を理解していない」以外に思いつかなかったのです(これを補強したのが例の20点のテスト)。私にとって、Mさんの独り言は、彼女の「知的障害疑惑」を濃くする作用しかもたらさなかった模様です。結果として、彼女に話しかけるのがますます億劫になってしまいました。乳児並みの頭の人に、あれこれ話しかける意味あんのか?みたいな。私が沢山話しかけたら、Mさんはもしかしたら嬉しかったのかもしれません。が、別に私は好きでMさんとつるんでいるわけではなかったので、進んで彼女のご機嫌取りをする気にはなれませんでした。それよりも、課題を仕上げる方が重要でした。なにせMさんは、グループ学習の際、さっぱり戦力にならない人。それにMさんに話しかけたとしても、先生はそこを評価してはくれません。

口がきけない人は、周囲から「『あ』って言ってみて ! 」と、しつこく言われることに辟易していることが多いようです。私はこのセリフを言ったことはありません。それは上記の通り、声自体は聞いたことがあったからです。

…「声は出せるが言葉にならない」理由、もう1つありましたね。「話したくないくらい、私のことが嫌い」という理由が。どっちにしても、当時Mさんに積極的に話しかける必要はなかった、ということに変わりはないのですけれど。

口がきけない子の話 9 筆談と手話

さて、口がきけないMさんといつも「まとめ」られ、当然彼女との意思疎通に難儀していた私。そんな私の頭の隅にしょっちゅう浮かんでいたのは、

筆 談

というアイデアでした。Mさんは確かに口がきけません。しかし読み書きはできる(多分)。従って、「Mさんと筆談でコミュニケーションがとれないか?」という考えに至るのは自然な事でした。しかし結局、Mさんと筆談した事は、その後の3年間でただの一度もありません。理由は複数ありますが、最大の理由は「紙がなかったから」です。

筆談の最大の欠点は、筆談用の紙をわざわざ準備しなければいけないという事です。筆談を最も必要としているのは、Mさん本人。当然Mさんや彼女の親が筆談用紙を準備すべきです。しかし、Mさんは絶対持っていないのです(なんでやねん)。しょうがないので周囲の人が準備する羽目になる。んで、それは大抵グループを組まされている私の役割になってしまうのです。でも、当然持ってないので筆談に至らない。私が準備しておけば、スムーズに筆談できたのかもしれません。が、やった事はなかったです。なぜかいっつも忘れてしまっていました。それに

なんで私がそこまでしなくちゃいけないんだ?

という反発が、内心盛大に発生しておりました。単なるクラスメイトなのに、なんで私が?そこまでお膳立てしなくちゃ、意思表示してくれないのか?あんたは何様だ?と。

Mさんとの筆談の必要性が生まれるのは、大抵グループ学習の時です。その時の流れを分かりやすく書くと、以下こんな感じ。

Mさんの考え・意見が知りたい! →筆談しよう!→筆談用の紙(メモ帳等)がない ! (ハタと気付く)→慌てて探すが見つからない→筆談できない→そこで諦めて終了

そもそも私自身Mさんとの筆談の必要性を認めながら、なぜか乗り気ではありませんでした。その理由は、前述したものの他に三つ。第一にMさんの書く字を読みたくなかった。そう、例の「釘を曲げたようなカクカクした字」のことです。なぜかあの字が生理的に受け付けなかったのです。じっと見ていると鳥肌が立ってくるのです。第二に、そもそもMさんとそこまでコミュニケートしたくなかった。私にとって彼女は友達ではありません。「押しつけられた変人」でしかなかった。友情を結ぶ相手ではなく、同情の相手に過ぎない人。そこまでして意思疎通しなくてはいけない重要人物、ではなかったのです。別に筆談しなくても、MさんはYes/Noは首振りで答えます。彼女の意見をわざわざ聞かなくても、それでグループ学習は進むのですから。この方法でMさん本人も特に不満はないようでした。第三に、先生の指示がなかったから。先生は「この子と2人組みを組んであげて?」とは言ってくるものの、「筆談してあげて?」とは言わなかったのです。だからこそ、私は筆談用紙を毎度毎度忘れていたのかもしれませんが。

先ほど「筆談を最も必要としているのは、Mさん本人」と書きましたが、この認識自体が間違っていたのかもしれません。彼女の意見を聞こうとした、私が必要としていただけで。えーっと、つまり、全ては私の独り相撲?ってことですか。なんか虚しいですねぇ。まぁ仮に、私が筆談用紙を用意したとしても、それが吉と出たかどうかは疑問です。「うちの子を障害者扱いするな! 」とMさんの親が怒鳴り込んでくる可能性もあった訳で。

蛇足:筆談に限らず、Mさんが周囲と交流したがっているような様子は、全くありませんでした。「口で話せないなら手で話したらどうか?」と、手話で話しかけようと考えた事もあるのですが、私は手話を知らなかったので無理でした。手話を自習してやってみればよかったのですが、Mさんのためにそこまでする気にはなれなかったんですよね。

寸借詐欺?な兄妹の話

もう四半世紀も前、私が小学校高学年の時。その兄妹に遭遇したのは某市営バスの車内でした。当時私は、少し離れたスイミングスクールに市営バスで通っていたのです。(スクールのバスでなく)

ある日のスクールの帰りのこと、いつものバス停でいつもの様に降りようとしたら、小学生くらいの兄妹が乗ってきました。最初に、お兄ちゃんがそのままスーッと乗ってきたので、後から乗る妹ちゃんがお金払うんかな?と思って見ていたら、なんとその子も払わず乗ってくる!アレっと思って見ていたら、運転手が声をかけました。

運:ちょっとお客さん、お金払ってくださいよー!

ま、当然ですな。んで、この後に続く兄妹のやりとりが、以下こんなんでした↓。

兄:おい、お前払えよ!(←妹に対して)

妹:えぇ!お金お兄ちゃんに渡したでしょ?

兄:何言ってんだよ。お前に渡したじゃん!

妹:私、持ってないよー!

とかなんとか、うだうだと。当然バスは発車できず、車内に嫌な空気が立ちこめ始めた…その時、1人の中年女性が進み出ました。「もういいわ、今日のところはオバちゃんが払ったげる」と。ヲイヲイ、オバちゃん払っちゃうんかい、と私内心ツッコミましたね。甘やかしちゃダメでしょ、と。そして次の瞬間、返ってきた運転手のセリフにぶったまげました。

運:やめてください。この子たち、いっつもこうなんです!

常習犯かよ!しかも有名人かよ!?

私はここでバスを降りてしまったので、その後バスがどうなったのかはわかりません。帰宅後母にこの出来事を話しました。かなりの衝撃だったので。「今日ね、変な子たちがいたんだよ。お金落としちゃったのかな?私も気をつけるわー」と。そしたら返ってきた母の推理がコチラ↓

母:その子達、きっとジュースとか買ってお金使っちゃったのよ。最初から、親切な人にたかる気だったんじゃないかしら?

そんなヤツいるんかい!?再び驚きましたが、少なくとも2人は確実にいたんですよね。まぁ「いつも」お金を落としてちゃって払えない、というのは不自然。誰かにたかる前提でお金を使ってしまった、と考える方が自然です。この兄妹のことは、しばらく我が家で話題になりました。「バスただ乗り兄妹」として。私、これが「寸借詐欺」という犯罪であることを知ったのは、成人後です。

終わり

ではありません。この話には後日談があるのです。

バスでの出来事から、数年後。私が中学校を卒業した後、この兄妹の兄の方が中学校に入学してきました。どうやら、学区が同じだった由。んでこの兄貴、なんと

中学校の制服姿のままバスのただ乗りをやらかし、学校に通報が来たらしい

のですorz。あいつら、治ってなかったのか…とウチの一家全員思わず脱力。そしてその後、この兄貴が障害があるんだかないんだか、といった話が聞こえてきました。人にたかる為に一芝居打つアタマがあるのに、障害?と一瞬不思議に思いました。が、制服姿で(≠身元特定容易な姿で)堂々とタダ乗りをやらかすという考えの浅さを見ると、やっぱり障害があるの?とも思えてきます。人にたかる障害ってあるのでしょうか?それともこれは「誤学習」の結果なんでしょうか?(以前、偶然お金を落としてしまった時、偶然誰かに払ってもらい、それ以後それがデフォルトになってしまった、といったケース)