空飛ぶ顔だけの〇〇!?

天使にも階級がある、ということはいつのまにか知っていました。多分30歳くらいまでには。ジャンル問わず本を乱読してきた成果でしょうか。何でもぜんぶで3階級9つの階級があるそうで。「天使」ガブリエルが下から2番目で、実はそんなに偉くない、というのは意外でしたね。偉い天使は、人間如きには関わらないらしいです。

で、「はじめてのルーブル 中野京子 集英社(現在は文庫)」を読んでいて衝撃だったのが、一番偉〜い第一階級の天使たちの姿。なんと

頭部に直接翼が生えている

というものらしい。つまり頭だけがパタパタ飛び回っている、という姿なのです。一瞬置いて出た感想は、

それって飛頭蛮!?

でした。(飛頭蛮とは、夜になると頭部だけが胴体から離れて飛び回る妖怪。中国由来。詳しくはこちらをどうぞ)著者は「えらく見えなくて困る」と書いてましたが、私の感想は「えらい、えらくない」以前の「妖怪みたい」というものでした。だって、頭だけが飛び回るんですよ!一瞬ギョッとしませんか?まぁ、一異教徒の取るに足らない感想に過ぎませんが。

神聖なのか、不気味なのか。「普通でないもの」をどう位置付けるかは、+か−かに分かれるのが普通とは言え、ここまで両極端なのかと東西の感覚の違いに驚きます。スペインの画家・ムリーリョの描く顔だけ天使は、愛らしい方だと思いますが。

蛇足:飛頭蛮についてもっと情報が欲しい方は、マンガ「地獄先生ぬ〜ベ〜」をおすすめします。かなりインパクトがありますので、少々注意。

聖☆おにいさん① 

大ヒットギャグ漫画「聖☆おにいさん」、初めて読んだのは確か単行本3巻が出た後でした。(知人から借りました)で、さっそく第2話の

「ブッダが手塚ブッダを読んで号泣しているシーン」

を読んで、「あぁ、これは私のツボに合うギャグだ」と直感し、その通りあっという間にのめり込みました。実は小学校高学年の時、手塚治虫の「ブッダ」を全巻読破していたので、(父が図書館から借りてきた)仕込まれたネタの理解が実にスムーズ。5巻くらいまでは単純に、大笑いしながら夢中で読んでいました。

しかし、6巻辺りからあまり笑えなくなってきました。読んでいてもどこかピンとこないというか、

内輪ネタで盛り上がっているのを遠巻きに見ている外野のポジションになっている、

というか。実はその辺りからキリスト教に対するマニアックネタ、特にイエスと弟子たちのエピソードが増えてきたため。キリスト教の知識が乏しい私は、元ネタが理解できなかったのです。という訳で、一時期「聖☆おにいさん」からは遠ざかっていました。

その状況を解決したのが、またしても中野京子の本

名画と読むイエス・キリストの物語  大和書房(現在は文春文庫)

でした。イエスの生涯を数々の名画と共に解説していく内容で、今までぼんやりとしか知らなかったエピソードが、詳しく解説されていました。結果「聖☆おにいさん」の内容が手に取るように理解できまして。「油の塗りすぎでユダに怒られる」やら「知らない、と3回言って鶏が鳴いたら本物」やら、もうおかしくてたまらない。

それ以後、「聖☆おにいさん」の読書に復帰。いつか来るかな〜と思っていた即身仏ネタが、ハロウィンと絡めてきた時(ゾンビという点で)は「そうきたか」と感心しました。他にも、発言小町に投稿するマリア様観葉植物に対して乙女ゲーム張りのセリフを放つブッダ。たくさん笑わせてもらいました。

しかし最近のバンクシーや相撲ネタは、私とは相容れないようで、あまり笑えず。私の笑いのツボと相性のいい話がまた増えたらいいな、と願っています。

この記事を書くために単行本を読み返していたら、「ケータイのアンテナ」、「リア・ディゾン」なんて単語が出てきました。懐かしいなぁ、って雑誌初掲載が2006年、1巻発売が2008年ですもの。そりゃあ懐かしくもなりますわ。リア・ディゾンなんて数年前にママになってますよ。

ちなみに前掲著、「この本は宗教の本ではない」と書いてあるのですが、図書館では宗教コーナーに置かれていました。えぇ、図書館本です。中野先生すみません…

偉人伝の謎② 家庭教師編

偉人伝に関する違和感第二弾、今回は「住み込み家庭教師」の話です。

偉人伝には、よく女性の「住み込み家庭教師」が出てきます。ナイチンゲールも姉と共に、家庭教師の先生から「フランス語・歴史・数学・絵画鑑賞などを習った」らしいです。(学習漫画の脚注より)しかし、当時小学生の私はここで「ん?」となったわけです。前3者はわかる。現在でも学校で勉強する科目なので。で、最後の「絵画鑑賞」って、何?わざわざ教わらなきゃいけないの?そもそも具体的にどんなことを習うの?と、皆目見当もつきませんでしたね。

でもこの謎も、中野京子の本によって解けました。そもそも

「絵は眺めるものではなく、知識を持って読み解くもの」

だったので。先生はそのための知識を教えていた、という訳です。ナイチンゲールもアトリビュートやら何かの象徴やら、一生懸命覚えていたんだろうか。

そして、「住み込み家庭教師」という存在そのものについて。偉人伝を読み込んでいた当時は「さすがお金持ち。家庭教師も住み込みなんだ!」くらいしか考えていなかったんですが。(10歳児の単純な思考)この言葉自体に複雑な背景があった、ということが「怖い絵3」(現在は死と乙女篇)の「レッドグレイブ かわいそうな先生」の解説により判明。住み込み家庭教師、はガヴァネス(gaverness)と呼ばれ働く女性が軽蔑された当時、女学校の先生と共に、軽蔑されないギリギリの職業だったということ。「現役お嬢様を教える没落お嬢様」という精神的にきつい立場に置かれていたということ。かつての同じ階級の男たちは、ガヴァネスに「身を落とした」女性との結婚をためらったため、結婚すら難しかったということ。階級制度とは、かくも厳しいものであったかと改めて驚き。

女性は「働いている」ということ自体軽蔑された、ということの裏には労働に対するヨーロッパ人の意識が関係しているのかな、と思いました。なにせ「労働は、神の与えた罰」なのだから。

マリー・キュリーもガヴァネスをしていた時、そこの息子と恋仲になるも破局したという話がありました。「マリーさんは、いい人だけど、結婚はダメだ。あの人は家庭教師なんだから」というのが相手の父親の言い分。読んだ当時はわかりませんでしたが、そういう背景があったのかと30過ぎて納得しました。偉人伝は、大人になってからの方が、歴史の流れや社会的な背景がよくわかって、もっと楽しく読めるのではないか、と最近よく思います。

「怖い絵」のデ・ジャ・ヴュなエピソード②

前回に引き続き「怖い絵」シリーズの「どっかで見たことあるな〜」エピソード、第2弾です。それは「怖い絵」収録のアルテミジア・ジェンティレスキ、「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」。発表順としてはこちらの方が先ですが、思い出すのに時間がかかったので第2弾になります。「怖い絵」を読んだのが2014年、でエピソードを目にしたのが、やはり2009年頃のグリム童話系のレディコミ。作者は忘れてしまいましたが、艶っぽい絵柄の人でした。前回の話と同様、固有名詞も時代も覚えていませんが、こちらのストーリーはかなり詳細に覚えています。列挙すると以下の内容。

  • 主人公は、絵の勉強をしている女の子(父に、もうバラの花を描くのは飽きた、と言っている)
  • 若い男が「君が美しいから、愛しいから描くんだ」とか言ってる(←多分コイツがタッシ)
  • 裁判での指締めの拷問。父が「娘は画家なんです。手だけはどうか!」と泣いている
  • 同じく裁判での産婆による身体検査
  • ヒゲのお偉いさん(←多分トスカナ大公)がニヤニヤしながら絵を注文
  • 「強姦された女がどんな絵を描くのか、見せてやる!」と内心啖呵を切る主人公
  • 出来上がった絵を見たお偉いさん、「うおぉぉぉっ!」と悲鳴をあげ、顔面蒼白
  • そして「これは、女の描く絵ではない!」と捨て台詞を吐いて、部屋から出て行ってしまう
  • それを見送りながら、内心「やった!勝った!」と思う主人公

しかしこれだけ覚えていて、なぜ固有名詞も何も覚えていないのか、自分の記憶力がナゾです。

この絵は、「技法上の師にあたる」カラヴァッジョの同名作品が元になっているという説明に、どういうことかと気になってました。父のオラツィオは、カラヴァッジョの影響を受けた「カラヴァッジェスキ」というグループの一員だったから、その繋がりなんでしょうね。

しっかし父ちゃん、人を見る目がちょっと。タッシみたいなロクデナシを娘に近づけたらダメでしょう。タッシはそんなに猫かぶりがうまかったのか、男と女では態度が違うヤツだったのか。はたまた「まさか、あの人が!」のタイプだったのか。

「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」、カラヴァッジョ版とアルテミジア版、どちらの方が好きか、といえばやっばりアルテミジアの方ですね。リアリティと臨場感がすごい。力強い腕といい、流れる血といい。そもそもオノマトペからして違う気がします。カラヴァッジョの方は

「や〜だな〜。ギコギコギコ」

ですが、アルテミジアの方は

「ていや〜!ふんぬ〜!(×2)、ゴリゴリゴリッ!、ボキィィッ!

なんですよね。リアルに人が殺せそうなのは、どう見ても後者です。

それにしても「ジェンティレスキ」という苗字、一発で読めませんでした。当初「ジェテレスキ」と読んでしまい、検索が全然引っかからず。こうなったのは、私だけではない、と信じたいです。

参考画像

ホロフェルネスの首を斬るユーディト
カラヴァッジョ版
カラヴァッジョ版
ホロフェルネスの首を斬るユーディト
アルテミジア版
アルテミジア版

画像引用 日経おとなのOFF 2019年6月号   怖い絵 中野京子 角川文庫

「怖い絵」のデ・ジャ・ヴュなエピソード①

このブログでも度々取り上げている中野京子著「怖い絵」シリーズ。読んでいるうちに「どっかで見たことあるな〜」というエピソードに2つばかり遭遇しました。

一つ目は「怖い絵 3」(現在は死と乙女篇)に収録されている、シーレ『死と乙女』。画家シーレとその愛人ヴァリのエピソードです。「怖い絵3」を読んだのが2014年。以前このエピソードを見かけたのは2009年前後、本屋で立ち読みしたグリム童話系のレディコミで、でした。作者は確か一川未宇。固有名詞も時代もよく覚えていないのですが、大雑把な話はこんな感じでした。画家のモデルをしていた女性が(全裸でポーズをとっているシーンがあった)従軍看護婦になったのち、若くして病気で亡くなる、というもの。記憶を掘り起こしつつ「怖い絵 3」を読んでいて、「あぁ、あれはこういう話だったのか」と納得しました。

まぁ、シーレは画家として才能あった方らしいですが、男としては褒められた方じゃないよな、と思います。「女の使い分け」が露骨なんですよね。「身元のしっかりした貞淑な妻」と「下層階級出身の奔放な愛人」どっちも欲しい!って。現在でもそんな男性がいる以上、当時は当たり前だったのかもしれませんが。愛人が黙って付いて来てくれる、と信じていたのが実に都合良すぎ。

しかし、ヴァリがシーレからあっさり去ることができたのは、まだ幸いだったかもと考えてしまいます。多分それは当時20世紀初頭で、女性が働ける場所が増えて来たから。それ以前の社会だったら、また誰かの愛人になるか、それとも娼婦になるか。そんな未来しか見えないのですから、そうなるくらいならこのままでいよう、とシーレにしがみついていたかもしれません。

「エゴン・シーレ 一川未宇」で検索したら、見つかりました。多分この本に収録されている話です。

愛虐のカタルシス〜女たちの激情 一川未宇 著 株式会社 ぶんか社

美術の教科書を振り返る

昔使った図工や美術の教科書には、同世代の表彰作品に混じって、過去の巨匠達の傑作が載っています。水彩画・油彩画・彫刻・版画・立体造形・etc…

しかし、思い返してみるとこれが「生徒が理解すること」を考えていない内容でした。作者名・タイトル・制作年・画材はわかるのです。書いてあるから。が、それ以外、「何を表現しているのか」がタイトル以外、手掛かりがないのです。例えば「〇〇の肖像」とあっても「この人、こんな顔だったんだ」でオシマイ。つまり、タイトルを見て、一度は「ああ、そう」と納得した様な感じはするのですが、それ以上頭の中に入ってこない。分かったような、分からんような不思議な感じがしていました。描かれている周囲の物にも何か意味があるのだろう、と思ってはいたのですが、教科書のどこにも解説がない。納得のいかないモヤモヤが溜まる一方なのです。そこに「芸術は高尚だ!」という信念を丸飲みさせられているという不快感がありました。「知識なしで、感性のみで絵を見る」とこうなってしまいます。

成人してから、あちこちの美術展に行く様になったのですが、やはり脳内が不完全燃焼を起こしていました。分かったような分からんような、あのイヤな感覚。このままじゃいけない、美術書を買って勉強しよう!と思ってみても、どんな本を買ったらいいのかもわからない。ので、先に進めなかったのです。

教科書掲載画の中でも、ぶっちぎりの訳わからんNo.1がファン・エイク作「アルノルフィニ夫妻の肖像」でした。(確か中学の教科書掲載)

アルノルフィニ夫妻

なせか?タイトルがほとんどヒントにならないのです。「夫妻の肖像」なので、絵の中の二人は夫婦だ、とはわかるのですが、ただそれだけ。せいぜい妻のお腹が出ている、妊娠中かな?くらいです。当然、画中に何か文章が書いてあることにも気づいておらず。周りに色々描いてある色んな物も、みんな単なる「背景」としてしか受け取れない。

わからん!の塊のこの絵をバッサリ解説してくれたのが「怖い絵2 中野京子 朝日出版社」でした。散りばめられた様々なシンボルの意味・書かれた署名の意味がサクサク分かって、とても爽快でした。妻の腹部が大きく見えるのは、妊娠ではなく流行のファッションだ、ということもわかりました。「あぁ、そうだったのか!」と。また夫の顔立ちに対しての

召喚された魔術師

という表現は、実にぴったり。読んだ瞬間、内心吹き出しました。

著者が「怖い絵」シリーズを書き出したのは、「感性で絵を見る」ことに偏っている日本の美術教育に対する不満がきっかけであった、と言います。確かに感性で見ていると印象に残らないし、例の「分かったような分からんような」あやふやな感じで終わってしまい、「芸術は難しい」と敬遠のきっかけにすらなってしまいます。

せめて、美術の教科書に「絵を読む」ための基礎知識を、少しでいいから載せていれば違うのでは?、と思います。例えば、

  • 西洋画は、東洋の花鳥画とは全く見方が違う
  • 絵にはヒエラルキーがある
  • 肖像画は2割増し
  • 画中画はヒント

みたいに。他にも、絵の中に文章が書かれている場合は、抜き書きして翻訳を載せるとか。アトリビュートなんて定期テストと相性が良さそうだから、教えやすいのではないでしょうか?

画像引用:西洋名画の楽しみ方完全ガイド 監修 雪山行二 池田書店

漫画版ナウシカの道化師

映画版よりも深く重いテーマと、広大な世界を描いたと名高い漫画版・風の谷のナウシカ。私も大好きです。今度歌舞伎になる様で。初めて目にしたのは小学校高学年の頃、従姉妹の部屋にてパラ読み。本格的に読み込んだのは中学生の時でした。夢中で読みましたが、あることが心に引っかかっておりました。

それは、トルメキアのヴ王に貼り付いている道化師。特徴をまとめてみるとこんな感じの人です。

  • すごく背が低い
  • 自分より醜い者を見て嬉しがる
  • 鈴のついた縞模様の服を着ている
  • 王様に皮肉言い放題 でも罰せられない
  • 最後はクシャナへの王位譲渡の証人になる

この人はなんなのだろう?専属コメディアンみたいなものかと思ってみましたが、何かが違う。ギャグや寸劇を演ずるわけでもなく。そもそも、なぜこんなに背が低いのか。考えても全く分からない。リア王にも出てきた道化。やっぱり王様に対して皮肉言い放題、でもお咎め無し。一体道化とはなんなのか、しっかりした説明がどこにも見当たらないのです。

この謎を解いたのは、「怖い絵2」を始めとする中野京子氏の著作でした。彼ら道化師は「慰み者」と言われ、召使いというよりペットの様な存在だった。心身に障害のある人が大半(小人症・巨人症など)で、彼らは王侯貴族から「装飾」として「ステイタス」として「富の誇示」として、また「引き立て役」「慈悲深さを演出するため」に集められ養われていた。彼らは人間扱いされていなかったが、それ故に大抵のことでは罰せられなかった権力者を批判しても。それがやがて「道化の特権」となり、知能が正常でも道化になる人が増えた。ということだそうで。

いやはや、衝撃。生きた人間が愛玩物として扱われていたとは。巨人をかき集めた王様がいたことは知ってたんですが、まさか小人まで集められていたなんて。しかし、「障害者はその昔、権力者のペットみたいなものだった」なんて、現代の良識からすると口にすることすら憚られることです。詳しい説明が見当たらないわけです。

これで、疑問は全て解けました。背がすごく低いのは小人症だから。醜いことも道化の才能の一つ。鈴のついた縞模様の服は道化の制服。王様への皮肉は「耳に痛い真実を語る」という大事な仕事。だったのです。

映画「エリザベス」でも似たようなシーンがありました。エリザベスが、豪華なドレスを着た小柄な成人女性(表情が明らかに大人)を抱っこしているシーンです。「侍女?にしては服が豪華すぎるし、侍女を抱っこするのは不自然だな」と思ってたんですが、彼女も「慰み者」の一人だったんでしょう。子供のいないエリザベスの愛玩欲求を発散させるために、小人症のあの人が側に置かれたんだろう、と今となっては推測できます。

「障害者は何をやっても批判されない」というのは、現代でも悪い形で残っている気がします。障害のある人が迷惑行為をしても、なぜか迷惑を被った側がたしなめられる、というアレです。「この子は何もわからないの。怒ってどうするの?」の様に。これはある意味、彼らを人間扱いしてないってことですよね?そして、「自分の立場の強化のために障害者を利用する」というのもやはり残っています。3年前の参院選、「五体不満足」で有名な某氏に出馬要請がきましたが、「わが党は差別しません!」という主張のアリバイ作りに利用されたような感があります。この御仁についてはその内詳しく書きたいです。

蛇足:「奴隷マーケットにおける不具者の値段は、現代のペット市場における珍種と同じく、非常に高価だった」という文、「アルビノのヘビやカメは、ありふれた種類であっても値段が数十倍になる」という話を思い出しました。

参考文献:怖い絵 泣く女篇 中野京子 角川文庫

サムソンとデリラ

前回の投稿で、「サムスンとサムソンを勘違いしていた」ということを書きました。その中で「サムソンがキリスト教用語だとは知っていた」と書いたのですが、今回はそのお話。

「サムソンとデリラ」という言葉を初めて聞いたのは、中学生の頃。吹奏楽のコンクールにて、このタイトルの曲を演奏している学校が多かったのです。ちなみにどんな曲だったのかは、全く覚えていません(笑)。ただこの時点でキリスト教用語の名詞、だとなぜかわかっていました。しかし、それがなんなのかが全くわからない。人名なのか地名なのか(ソドムとゴモラ、のような)。でも、わざわざ調べようという気にはなれず、疑問のまま長年心の片隅に放置されていました。時たま気になるけれども、そこまで大事なことではないため放置。でもどこか不快感がある、という感じ。

そして成人後のある日、宗教学の本を読んでいたら突然再会。しかし

「美女デリラに騙された怪力サムソン」

という実に単純な書き方。「ああ、そうだったのか」と納得したのと同時に「騙されるなんておマヌケだなあ」くらいにしか思えませんでした。要は興味をそそられる描写ではなかったのです。とにかくサムソンもデリラも、人名だということはわかった。そしてサムソンは「士師(judge)と呼ばれるカリスマ軍事指導者」で、やたらと強い人だということはわかった。でもただそれだけでした。(参考文献:世界がわかる宗教社会学入門  橋爪大三郎 ちくま文庫)

その印象が一変したのが

中野京子と読み解く 名画の謎 旧約・新約聖書編 中野京子 文藝春秋

でした。文庫版が出る前の時期なので、多分2014年のことです。サムソンとデリラのストーリーが、名画と共に生き生きと展開されていて、グイグイ惹きこまれて行きました。書き方と文章でここまで興味の持ちようが変わるのか、と我ながら驚き。サムソンがデリラに騙されるまで、いろんな人間ドラマが展開されていた。そしてサムソンは、あっさり騙された筋肉バカではなかったのです!(←何度かはぐらかしてる)

個人的には、前掲著で紹介されていたルーベンスの絵よりも、カラヴァッジョ作品の方が好きです。いかにも「The 悪女」なデリラがいっそ清々しい。ルーベンスの方は、デリラが「一抹の申し訳なさ」を感じているような、煮え切れない描写が好みではないのです。後悔するなら最初からやるなよ、とツッコミたくなります。