サムソンとデリラ

前回の投稿で、「サムスンとサムソンを勘違いしていた」ということを書きました。その中で「サムソンがキリスト教用語だとは知っていた」と書いたのですが、今回はそのお話。

「サムソンとデリラ」という言葉を初めて聞いたのは、中学生の頃。吹奏楽のコンクールにて、このタイトルの曲を演奏している学校が多かったのです。ちなみにどんな曲だったのかは、全く覚えていません(笑)。ただこの時点でキリスト教用語の名詞、だとなぜかわかっていました。しかし、それがなんなのかが全くわからない。人名なのか地名なのか(ソドムとゴモラ、のような)。でも、わざわざ調べようという気にはなれず、疑問のまま長年心の片隅に放置されていました。時たま気になるけれども、そこまで大事なことではないため放置。でもどこか不快感がある、という感じ。

そして成人後のある日、宗教学の本を読んでいたら突然再会。しかし

「美女デリラに騙された怪力サムソン」

という実に単純な書き方。「ああ、そうだったのか」と納得したのと同時に「騙されるなんておマヌケだなあ」くらいにしか思えませんでした。要は興味をそそられる描写ではなかったのです。とにかくサムソンもデリラも、人名だということはわかった。そしてサムソンは「士師(judge)と呼ばれるカリスマ軍事指導者」で、やたらと強い人だということはわかった。でもただそれだけでした。(参考文献:世界がわかる宗教社会学入門  橋爪大三郎 ちくま文庫)

その印象が一変したのが

中野京子と読み解く 名画の謎 旧約・新約聖書編 中野京子 文藝春秋

でした。文庫版が出る前の時期なので、多分2014年のことです。サムソンとデリラのストーリーが、名画と共に生き生きと展開されていて、グイグイ惹きこまれて行きました。書き方と文章でここまで興味の持ちようが変わるのか、と我ながら驚き。サムソンがデリラに騙されるまで、いろんな人間ドラマが展開されていた。そしてサムソンは、あっさり騙された筋肉バカではなかったのです!(←何度かはぐらかしてる)

個人的には、前掲著で紹介されていたルーベンスの絵よりも、カラヴァッジョ作品の方が好きです。いかにも「The 悪女」なデリラがいっそ清々しい。ルーベンスの方は、デリラが「一抹の申し訳なさ」を感じているような、煮え切れない描写が好みではないのです。後悔するなら最初からやるなよ、とツッコミたくなります。

投稿者: 管理人富永

関東在住。気がついたらアラフォー。女性。

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