乙武サンについて4 「五体不満足」を振り返る

大ベストセラーとなった乙武さんの著書、「五体不満足」。出版は1998年、私は当時中学生でしたが、読んだのは成人してからになります。(母がどこぞから借りてきた本でした)

まず、いい意味で予想を裏切る内容でした。私はてっきり「障害ゆえの苦労や周囲の差別・無理解・偏見がありましたが、なんとか乗り越えて、現在楽しくやってます!」という内容かと予想してたのですが、そうじゃなかった。障害ゆえの苦労や周囲の無理解などほとんど無く(0でもなかったが)周囲に自然に溶け込み、毎日楽しく明るく前向きに!という内容でした。そんな障害者(しかも重度!!)がいるなんて想像したこともなかったので、これはかなり新鮮でした。「こんな人っているんだ〜」と。

しかし、

全く感動しなかった

のもまた事実です。単純に「症例:その1」でしかなかった。そもそもどこに感動のポイントがあるのか、いまだによくわかりません。どなたかに教えて頂きたいくらいです。

そして何度か読んでいるうちに「本当か〜?」とモヤモヤ感が深まっていったのも本当なのです。

まず、一つ目としては、「乙武さんの周りに、やたらと優しさ溢れる親切で物分かりのいい人々」が大集合していたこと。こんなことってあり得るのでしょうか?確率的に。いくら「世田谷は民度が高い」と言えども、ここまでなのか?

ついで二つ目は、乙武さんが、健常のクラスメートの中にごくナチュラルに溶け込んでいたこと。ここは、大抵の人にとっては感動ポイントなんでしょうけど、私にとっては引っ掛かるポイントでした。いえ、私も最初は素直に「本当にこんなことってあるんだ〜。いい人ばかりのいいクラスだな」と思ってたのですが。何度か読んでいるうちに違和感が沸いてきたのです。

あまりにうまく行き過ぎている…

と。例えるなら、ハイキングに行ったつもりが、スーパー林道のウォーキング大会だった様な。あまりに滑らかにスイスイと進んでいて不自然なのです。

なんでこんな考えに至ったのか?実は私、小中合わせて5年程、障害児と同じクラスで過ごしたことがあります。その時の記憶と比較してみると、この辺りの描写は疑問符がつくのです。彼ら障害のあるクラスメートに対して、乙武さんのクラスメートの様にごく自然に接することができたか?面倒を見ることも厭わず優しくできたか?と、考えるとどうしても「否」という結論が出てしまう。

  • 元クラスメート→知的と身体の重複障害者が大半
  • 乙武さん→知的障害が無い手足がないだけ

という違いのせいかもしれない、と当初考えてみました。しかし本当にそれだけか。例え会話が成立したとしても、「手も足もない肉体」はそれだけで衝撃です。実はクラスメートにかなりの精神的な負荷を掛けていたのでは、と推察できますが、その辺りの事情がほとんど書かれていない。なぜなんでしょう?私も子供時代の反省を踏まえて、障害者に対して自然に接するコツ・秘訣、みたいなのが書かれているかも!ぜひ吸収しなきゃ!と目を皿の様にして読んでみたのですが、これまたどこにも書かれてないんですよね。つまり、いくら熱心に「五体不満足」を読み込んでみても、その辺の身近な障害者に対して応用ができないのです。そして何度も読んでいるうちに段々と虚しくなっていって、ついには読めなくなるのです。

つまり「五体不満足」はかなり不思議な本なのです。最初の1回・2回読んだ直後は「みんなやればできるんだ!差別のない明るい世の中を作るんだ!」と明るく前向きな気持ちになれるのに。それが5回目・6回目となると、「で、具体的にどーすりゃいいの?結局’障害を感じさせない障害者’ならともかく’The 障害者’という人に自然に接するのはかなり難しいんじゃない?あれは乙武さんだからできたことでしょう?」と、どこかシケた投げやりな、諦めに似た気持ちになってしまうのですから。

乙武サンについて3 イタリアンレストラン編

イタリアンレストランの一件について、まず第一印象は、

「すごい偶然だな

でした。

  • たまたま男性スタッフのいない日に、
  • たまたまオサレスーツ着用で、
  • たまたま妻でない女性と「隠れ家的レストラン」で食事、

なんてそうそうある事じゃないです。しかし全くのゼロ、とも言い切れない。まぁ、確率100万分の1くらいかな〜と思っていました(←普通はそれをゼロと言うが)。妻でない女性と二人っきり、と言う点は一瞬「ん?」と思ったのですが、不倫の「ふ」の字も浮かびませんでしたね。その発想自体がなかったし、「不倫」だったら自分からここまで言い触らすなんて有り得ない、と考えるのが普通ですから。一部の鋭い人たちはこの時点から疑っていたらしい、と後に聞いて変に感心してしまった位です。

しかし、明らかに違和感を持った所が3つありました。

一つ目は、乙武さんが車椅子から降りて歩かなかった事。「スーツが汚れるから」と言う理由らしいですが、それっぽっちの理由で歩かなかったのは不自然に感じたのです。彼はいつも「僕はなんでもできる!」と自己PRしていますし、そもそも「五体不満足」の記述では歩けるはず、なのになんで自力で階段を登らないのか。そうしたら、

実はこの人、本当は歩けないんじゃないのか?

と言う疑念が沸きました。きっと、同情されたくないから、なめられたくないから、強がってハッタリかましてるんじゃないか。周囲も優しいからあえて指摘しないであげているのだろう、と思えてきたのです。考えてみれば、乙武さんはいつでもどこでも車椅子で参上していましたしね。私は、それまで彼が自力歩行している姿を見たことがなかったのです。野球の始球式の画像を見たのは、不倫騒動後が初です。

二つ目は、「自分が困っていたらいつも友人が助けてくれる!」と、自信満々で言い切っていた所。これにはかなりの違和感がありました。なぜ、そこまで言い切れるのか。「信頼しきっている」と肯定的な解釈もできますが、どうもそうじゃないニュアンスが感じ取れまして。「友人」だって色々と都合があるでしょうよ、時間的・体力的・精神的に。乙武さんのこの言い方では、まるで相手がお助けマンか便利屋のように聞こえます。そもそも彼がいつも助けてもらえたのは、彼が友人連中の中で「唯一の障害者」だから、じゃないでしょうか。他にも障害者がいたら「人手」が分散してしまって、そこまで助けてもらえないのでは。彼が障害者ではなく、いつも健常者とつるんでいる原因の一つは、これかもしれません。「今まで、車椅子可かどうか調べたことがなかった」って、周囲からどんだけ配慮されていたんでしょうか。これを「自慢」と受け取る人が出ても不思議じゃないです。

三つ目は、この件をいきなり「世に問うてみる!」と言い出した所。なぜ、問う相手がいきなり「世」になるのか。まずは身近な相手、例えば「車椅子仲間に問うてみる!」じゃないのか。そこまでスケールを拡大した発言になる理由が、全くわかりません。まぁ、まさか「車椅子仲間」が一人もいないさみしい御仁、だったとは想定外でしたが。

前々回の記事で書いた「多少のツッコミどころ」とは、こんな所です。

乙武サンについて2

冷静になって考えてみれば、乙武さんが不倫をしたこと自体は別に不思議ではありません。顔面偏差値は中の上、頭と口が回るしお金持ち、年齢も(当時は)30代、そして外聞の良い有名人、と来れば異性を惹きつけるのには十分です。そして、かばう人が2〜3人は出るだろうな、とは予想していました。が、フタを開けて驚き。

それ以上の人間が乙武さんを庇ったから。

何であんなに庇うんでしょうか?(弱みでも握られているのか?)友人連中は「あいつは特別だから、目をつぶろうよ」なんて言ってたらしいですが、それはひょっとして「差別」じゃないのか。それにしたって、わざわざ箝口令を敷かなくても、口止め料を払わなくても周囲が自発的に口を噤んでくれる、障害者とは実にお得な立場だな、と私、つい皮肉な眼差しを向けてしまいました。ベッキーに対する態度との違いはなんなのか。(私はベッキーに対して、特に関心はありません)

芸能記者のコメントで「乙武さんの女好きは、当たり前すぎて記事にならないと思っていた」なんてのもありましたが、どう見ても言い訳。むしろ今まで全く報道がなかったからこそ、クリーンなイメージが膨れ上がり、その反動でここまで大炎上したとも言えます。「乙武さんが、また美女とお泊まり!」なんて記事がしょっちゅう出てれば、「またあの人か〜」で済んだんですから。メディアの「忖度」が返って裏目に出たってことですね。過度の忖度は人をダメにする、という教訓がここに。

で、ふと思ったのは

乙武さんが女だったら、みんなここまで庇ったか?

ということ。(女だったらこんな性格になってなかった可能性はありますが)学生時代から複数のボーイフレンドを侍らせ、飲み会では下ネタ三昧。結婚後もホストクラブで豪遊を続け、大人しいのは妊娠中だけ。夫に生理用ナプキンまで換えさせておきながら、夫と子供を放置して若いツバメ(←死語)と海外旅行。こんな「女」だったら世間は庇ったか?「障害女性の性欲処理は大変なんです」と、理解を示したか、と考えるとそれは多分「否」でしょう。彼が不倫し放題の上、変に庇ってもらえたのは彼が「障害者」である以上に「男」だったから、とも言えます。

乙武さんがいつも若くてキレイな(華奢な)女性と一緒だったことに、誰も突っ込まなかった事も不思議です。親にこの疑問をぶつけた所、「介護だと思われてたんじゃない?」という回答が返ってきましたが、介護なら別に若くなくても美人でなくてもいいですよね。(そして体格はガッシリ系の方がいい)そもそも最近は障害者の羞恥心を考えて、介護は基本同性でという方針になっていたはずです。庇っていた有名人にもそんな事を言っていた人がいましたが、それは同性介護を推進してきた人たちの努力を無視するものなのでは?

蛇足:家人は、乙武さんにまーったく関心がありませんでした。話を振ったところ、「えっ、誰それ?あっ、わかった。口で筆を咥えて、みつおっぽい詩を書く人でしょ?」と返されました orz。まさかの星野富弘氏との混同。どうやら、「ハンデがあっても頑張っていいことしてる人」で終了していたらしいです。何かと話題になる人に対して、ここまで無関心を貫けるのもある意味すごいな、と変に感心してしまいました。

乙武サンについて1 不倫スキャンダル編

2016年3月下旬に発覚した、日本一有名な障害者・乙武洋匡氏の不倫スキャンダル、実は私あまり驚きませんでした。強いていうなら「あの乙武さんが!?」と驚く気持ちが2割、「あぁ、やっぱり」と納得する気持ちが8割といった感じ。「あの乙武さんが!?」というのも「あの人格者の乙武さんが!?」という意味ではなく、「移動が大変な車椅子で、よく不倫できたな!あんな目立つナリして、よくバレなかったな!」といった面が主でした。と、同時にこの人は「’生殖用の女’と’快楽用の女’を使い分ける旧態依然としたイヤ〜なタイプの男」だったのかと幻滅しました。

なぜ、「あぁ、やっぱり」という感想が出てきたのか。実は乙武さんの言動には2013年の夏辺りからずーっと違和感を持っていました。というと、イタリアンレストランの件…を連想する人が大半だと思いますが、そっちではないのです。この件については、多少ツッコミ処はあったもののそこまで関心がなかったので。双方「俺は悪くない!」という主張に終始するのは、目に見えていましたし、その場にいない人間が憶測で何か言ってもしょうがない、と冷めた目で見ていました。(別記事で書きます)

では、何がきっかけだったのか。それはネット上で見つけた一枚の写真。うろ覚えですが、確か

海パンいっちょにグラサン姿の乙武サンが日向ぼっこしている写真

で、タイトルが

「カタワの甲羅干し」

でした。もうね、ドン引き。一瞬成り済ましかと思ったレベル。「この人、これがウケるとか思ってんの!?頭、平気?」って。この写真を見て、後腐れなくカラカラ笑える人間は多分いないのに、一体何を考えているのかと呆れました。それに、どこか自分に酔ってるのがミエミエで、気持ち悪かった。「こんなこともできちゃう俺っちって、かっちょいいベー!!」ってどこがなんだか。この写真に意味があるとすれば「乙武さんもフツーの人間」だと気づかせてくれた、くらいです。ええ、フツーでした。フツーにむさい小男でしたよ、乙武さんは。しかし、フツーの人間の胴体に切り株の様な手足が付いている、というのはかなり強烈なインパクトでした。(これが彼の’武器’なのかもしれない)

で、立ち止まって考えてみたら、色々気が付いた訳です。

乙武さんは障害者の代表のように振舞っているけれど、いつも健常者とばかりつるんでいる

と。乙武さんは、あちこちで対談したり共著を出したりしているけれど、相手はことごとく健常者だったんですよね。考えてみれば変です。障害を前面に出して5年6年活動していれば、パラリンピック選手との対談くらい持ち込まれてもおかしくないのに、なぜ?なぜダウン症の書道家や、車椅子の小児科医と対談しないのか。もちろん先方にも選ぶ権利はありますし、そもそも乙武さんは「自分は障害者の代表」なんて一言も言っていないのです。しかし、ここまで他の障害者との接点がないのが謎でした。

ちなみに不倫発覚前、私が持っていた乙武さんの基本的印象は「可もなく不可もなし」。当然彼を人格者だと思ったことはありません。「五体不満足の作者」で「たまにブログが炎上する人」、というざっくりしたものでした。

本来なら不倫発覚から4周年になる3月に書くつもりだったのですが、多分忙しくて無理そうなので今書きました。