中華思想に出会った日

それは小学6年時。社会(歴史)の授業の、グループ学習の発表の時間で、でした。(当時の担任は、グループ学習・調べ学習が大好きな人でした)とある男子グループの

「中国の意地悪!?」

というタイトルでの発表だったと記憶しています。

内容はヤマトが「邪馬台」、ヒメコが「卑弥呼」となっている理由。「邪」・「卑 」と悪い意味の漢字が当てられているのは、中国側の意地悪のせい、という内容の発表でした。私の感想は「へぇ、そうなんだ」という単純なもの。「わざわざそんなことしてどうする?」以外特に何も出てきませんでした。担任は、中国・韓国と仲良く❤️なバリバリの左系統人でしたが、発表の邪魔をする、なんて事はしませんでした。ただ苦笑しながら見守っていただけです。これはごく普通の対応なのですが、世の中にトンデモ教師が多いことを考えると、褒めるべきなのかもしれません。

「相手に悪い意味の文字をわざと当てる」、その根底にあるのが「中華思想」だと知ったのは高校生の頃。図書室にて、あれこれ歴史の本をひっくり返して調べていて判明しました。そしてこれが、対日本特有のものでない、ということも。「匈奴」や「吐蕃」もその一例だということです。(確かに、’奴’も’吐’も良い意味ではない)わざわざ相手に蔑称をつけ、それを公文書に残す。考えてみれば、かなり陰険で底意地の悪い行いです。このことから、大陸の人々は単なるカワイソウな集団ではないらしい、とこの時うっすら気づきました。裏を返せばそれまで私にとって、

中国大陸の人々はカワイソウな人たちであった

というわけです。何かにつけ、「日本の振る舞いに傷ついた、謝罪しろ!」と叫んでいるシーンの報道を見ながら、「あぁ、傷ついているのか。なんて可哀想なんだろう」と素直に哀れむのが日常でした。ですので、この気づきは確実に私の思考のターニングポイントだったと言えます。

この担任(N先生)については、色々と香ばしいエピソードがたくさんありまして、追々書いていこうと思います。問題は、エピソードがありすぎて、どこから書けばいいのかわからないことです。orz。

高校の教科書を売っていた本屋の話

さて、高校(高等学校)が義務教育化して久しく、普段は「義務教育ではない」と意識する事すら、あまりありません。でもそれを強烈に意識するのが、私の場合「教科書を買いに行く時」でした。中学までは学校で配っていたのに、わざわざ「買いに行く」んですから。

ということで、学校指定の本屋までわざわざ行くわけです。その本屋の立地は高校と最寄駅を挟んで丁度反対側、という感じでした。駅からかなり遠く、バスもなくひたすら歩いた記憶があります。(ちなみに当時は高3進級直前)その本屋で大量の教科書と、ついでに数冊の参考書を購入。したところで、ふと好奇心が。この本屋では他にどんな本を扱っているんだろう?で、参考書コーナーと壁を挟んだ反対側に行ってみたら、なんとそこは

エロ本の山・山・山

美少女コミックからエロ劇画、ヌード写真集まであらゆるエロが大集合していました(爆)。あまりのインパクトに、嫌悪感が湧くどころか素直に驚嘆してしまったくらいです。「スゲェェェ!エロ本の山だ!!」と。

同時に悟りましたね。

この本屋の経営は、教科書とエロ本とで成り立っている

と。極端すぎるし、本棚のラインナップがとんでもないことになりますが、経営戦略としてはいいセンいってる方じゃないでしょうか。なぜなら、

絶対食いっぱぐれないから

まず、高校生が0人になることはありません。そして彼らは教科書だけでなく、参考書もついで買いしてくれます。私のように。それ以上に、エロ本の需要が0になることもない。元々3大欲求に関することは強い上、当時はネットが発展途上でした。エロ情報が欲しければ、エロ本かエロビデオを手に取るしかなかったのです。

蛇足:本のみっしり詰まった超重いカバンを、両肩にかけてヨロヨロ歩いていたら、荷物運びのラクダやロバの気持ちが少しわかった気がしました…

韓国時代劇考

2003年放送のドラマ「冬のソナタ」以後、沢山の韓国ドラマが日本に流入しました。うちの両親がよく見ていたのは後半の時代劇の方ですけれど。宮廷女官チャングムの誓い、チェオクの剣、イ・サンetc…。当時の我が家では毎週土曜日の午後11時以降、韓国時代劇鑑賞タイムになっていました。

私は、新聞を読みながら横目でチラ見していたのですが、どうにも好きになれませんでした。理由は別に韓国蔑視でもなく、「盛りすぎ」のストーリーが嫌だったわけでもなく。

言葉遣いが子供っぽく、どこかふざけているようで気持ち悪かった

からです。臣下が国王に呼びかける際「王様」と呼ぶのがもうね、違和感モリモリ。「王様」「王様」ってグリム童話じゃないんだから。バカにしてんのか?とすら思えてしまって。とにかく「陛下」「国王陛下」とは絶対に呼ばないのが謎すぎました。しかもその詳しい解説が目につく範囲に見当たらない。これが華夷秩序や冊封体制に起因することはなんとなく予想してましたけれど。ハッキリしないのがこれまた気持ち悪いものでした。

憲政史研究家の倉山満氏によると、正しく翻訳すると

「国王殿下」

となるそうです。中華帝国の皇太子殿下と同じ格付けである、と当人たちが認めているからこうなっている、と。(参考文献:嘘だらけの日韓近現代史 扶桑社新書 2013年)「国王殿下」と正しく訳したら、(親切な)視聴者から「間違ってますよ」と指摘されてしまうからこういう訳になってるんでしょうけど、なぜ説明がないのでしょうか。不親切ですし、何より違和感のせいでストーリーに集中できません。

なぜ韓国時代劇を見るのか?両親に聞いたところ「次にどうなるかわからないところが面白いから」という回答が返ってきました。日本の時代劇だと、「もう何度目だよ、関ヶ原」となってしまってドキドキ感がないから、だそうで。「次にどうなるんだ?」で、ドキドキしたいなら異世界ファンタジーでも良い気がしますがね。前掲著によると「韓国時代劇はファンタジー」らしいので、ある意味正解やもしれませぬ。

蛇足:母はあまりに一気に韓国時代劇を見すぎたせいか、脳内で「宮廷女官チャングムの誓い」と「チェオクの剣」が混ざってしまい、「チャオクの剣」なんつってました。料理を極めつつ、剣の腕を磨く…ってどんなヒロインなんだか。

名簿の問題 分けるか分けないか

私は小中高の12年間で、男女別名簿・男女混合名簿、どちらも経験しました。

小学校入学時は男女別でしたが、当時は特に意識していませんでした。出欠を取る時に男子が先か・女子が先か、で揉めた記憶も特にありません。担任が「今日は男の子からかな?女の子からかな?」と聞いてから、日直(男女各1名ずつ)がジャンケンしたり、「昨日は女子からだったから、今日は男子!」という意見が出たりして決める、というほのぼのしたやり取りを覚えています。

そしていつの間にか、小5位からは男女混合になっていました。「あれ?混ぜるの?」と思いましたが、別に気にした記憶もありません。「これからはこうなるんだ」と思っただけです。その辺りで、「NHK週刊こどもニュース」をまとめた「目からうろこ NHK週刊こどもニュース・スペシャル小学生の大疑問100」という本を読み、「何気ない区別が差別に繋がるという意見もある」ということを知るわけで。世の中表面だけでなく、突っ込んだところまで考えなくてはいけないんだ、色々大変だなぁと思いました。

その後中学校は男女別で、高校では男女混合に戻りました。

12年間の移り変わりを単純にまとめると、別→混合→別→混合となります。そして二度目以降、移り変わる時に意識の上で何か「段差」「断層」の様なものを感じていました。言葉にしづらいのですが。自分自身はもちろん、「学校」という環境自体も変わっていないのに、意識の上で別世界に足を踏み入れた様な。特に中学入学時には、制服やら生徒手帳の「生徒心得」やらのためなのか、変な圧迫感を覚えていました。その後の高校入学時には「あ、’元の世界’に戻ってきた」という感覚がしました。

意識面での影響は一度置いて、単純に機能面でのそれぞれの長短を挙げてみると以下のようになります。

男女別名簿のメリットは

  • クラスの男子・女子の人数がすぐわかる
  • 健康診断の時、自分が何番目かすぐわかる 

逆にデメリットは

  • クラス内に同じ番号の人間が二人いて、ややこしい(例:男子の5番と女子の5番)

ですね。

男女混合名簿のメリットは

  • クラス内にその番号の人間は一人しかいない

デメリットは

  • クラスの男女の人数がすぐに出てこない
  • 健康診断の時、自分が何番目かわからない

ということです。

混合名簿の2番目のデメリットを理由に、混合名簿を廃止しろ!という主張もある様ですが、それは極論というものでしょう。自分の直前にいるのは誰なのか、把握していれば問題ないのですから。むしろ、出席をとるたびに毎度毎度男子が先、という状況が10年以上続く方が、意識の上で悪影響ではないかと思います。現に「いつも男子が先でずるい!」と思っていた人もいる様です。小一の頃の私が気にしていなかったのは、第一に幼くてそこまで頭が回らなかったから、第二にいつも男子が先!にならない様、担任が配慮していたのが大きいのではないかと考えています。

美術の教科書を振り返る

昔使った図工や美術の教科書には、同世代の表彰作品に混じって、過去の巨匠達の傑作が載っています。水彩画・油彩画・彫刻・版画・立体造形・etc…

しかし、思い返してみるとこれが「生徒が理解すること」を考えていない内容でした。作者名・タイトル・制作年・画材はわかるのです。書いてあるから。が、それ以外、「何を表現しているのか」がタイトル以外、手掛かりがないのです。例えば「〇〇の肖像」とあっても「この人、こんな顔だったんだ」でオシマイ。つまり、タイトルを見て、一度は「ああ、そう」と納得した様な感じはするのですが、それ以上頭の中に入ってこない。分かったような、分からんような不思議な感じがしていました。描かれている周囲の物にも何か意味があるのだろう、と思ってはいたのですが、教科書のどこにも解説がない。納得のいかないモヤモヤが溜まる一方なのです。そこに「芸術は高尚だ!」という信念を丸飲みさせられているという不快感がありました。「知識なしで、感性のみで絵を見る」とこうなってしまいます。

成人してから、あちこちの美術展に行く様になったのですが、やはり脳内が不完全燃焼を起こしていました。分かったような分からんような、あのイヤな感覚。このままじゃいけない、美術書を買って勉強しよう!と思ってみても、どんな本を買ったらいいのかもわからない。ので、先に進めなかったのです。

教科書掲載画の中でも、ぶっちぎりの訳わからんNo.1がファン・エイク作「アルノルフィニ夫妻の肖像」でした。(確か中学の教科書掲載)

アルノルフィニ夫妻

なせか?タイトルがほとんどヒントにならないのです。「夫妻の肖像」なので、絵の中の二人は夫婦だ、とはわかるのですが、ただそれだけ。せいぜい妻のお腹が出ている、妊娠中かな?くらいです。当然、画中に何か文章が書いてあることにも気づいておらず。周りに色々描いてある色んな物も、みんな単なる「背景」としてしか受け取れない。

わからん!の塊のこの絵をバッサリ解説してくれたのが「怖い絵2 中野京子 朝日出版社」でした。散りばめられた様々なシンボルの意味・書かれた署名の意味がサクサク分かって、とても爽快でした。妻の腹部が大きく見えるのは、妊娠ではなく流行のファッションだ、ということもわかりました。「あぁ、そうだったのか!」と。また夫の顔立ちに対しての

召喚された魔術師

という表現は、実にぴったり。読んだ瞬間、内心吹き出しました。

著者が「怖い絵」シリーズを書き出したのは、「感性で絵を見る」ことに偏っている日本の美術教育に対する不満がきっかけであった、と言います。確かに感性で見ていると印象に残らないし、例の「分かったような分からんような」あやふやな感じで終わってしまい、「芸術は難しい」と敬遠のきっかけにすらなってしまいます。

せめて、美術の教科書に「絵を読む」ための基礎知識を、少しでいいから載せていれば違うのでは?、と思います。例えば、

  • 西洋画は、東洋の花鳥画とは全く見方が違う
  • 絵にはヒエラルキーがある
  • 肖像画は2割増し
  • 画中画はヒント

みたいに。他にも、絵の中に文章が書かれている場合は、抜き書きして翻訳を載せるとか。アトリビュートなんて定期テストと相性が良さそうだから、教えやすいのではないでしょうか?

画像引用:西洋名画の楽しみ方完全ガイド 監修 雪山行二 池田書店

偉人伝の謎①

前回に引き続き、偉人伝話。

主に小学生の頃に、たくさん偉人伝を読んでました。(半分は学習漫画)で、大量に読み込んでいるうちに、だんだんと疑問や引っ掛かりを感じることが多くなりました。しかもいくら読み込んでも、よく分からない・全然理解できないものばかり。不愉快なモヤモヤが心に溜まっていきました。列挙するとこんな感じ。

  1. シューベルトの死に方が急すぎる。元から体が丈夫でないとは言え、こんなにアッサリ死ぬのか?(食あたりか腸チフスで寝込む→無理して悪天候の中、ベートーベンの葬儀に出席→更に体調悪化し死亡)
  2. チャイコフスキーの人生、女っ気なさすぎ(結婚には失敗、資産家女性からの資金援助はなぜか途中で断る)
  3. ナイチンゲールが「看護婦になりたい」と言った時の家族の反対が激烈すぎ(当時は看護婦=だらしない女性、のイメージがあったとは言えここまでか?)
  4. シューマンが入院した後、自殺未遂を繰り返すに至ったその過程が不明瞭(創作が行き詰まってノイローゼになったのかと思った)
  5. 野口英世が研究していた「梅毒スピロヘータ」という病気の説明が大雑把すぎて意味不明(チフスやコレラの説明文とは明らかに違い、感染経路も症状も全然書かれていない)
  6. ヘレン・ケラーの人生が勉強と講演ばかり。それで人生楽しかったのか?(障害者の恋愛、は時代からしたら難しかったかもしれないが、それで良かったのか?)

これらのモヤモヤ、成人したあたりから、少しづつ溶けていきました。まあ、結論からいうと

性にまつわるエトセトラ

だったのです。具体的にあげると

  1. もともと梅毒、及び水銀療法のため体力がおちていたから
  2. チャイコフスキーはゲイだった
  3. だらしない、とは「性的な意味で」だった(要は娼婦のイメージがあった)
  4. シューマンの精神疾患は、梅毒の末期症状
  5. 梅毒は性感染症のため、子供向けの本では詳しく説明できなかったから
  6. 好きな人はいたらしいが、周囲が(特に母が)引き裂いた模様

ということでした。「偉人伝」ですもの、「聖人伝」ではありませんから。泥臭く生臭いエピソードがあって当然です。しかし1,4,5,が、「梅毒」という一つのキーワードで繋がってしまったのはびっくりでした。どんだけ流行してたんだ。

野口の伝記について:梅毒が説明しづらい病気だとしても、梅毒の説明が不完全だと、野口の功績がうまく伝わらないのでは?「一部の精神疾患は感染症が原因で起こる」ということを発見した功績が。高校生くらいで性教育も絡めて、しっかり教えてもいいんじゃないかと思います。親から苦情が来ても「偉人の生涯について教えました」と言えばなんとかなるかも。

ちなみに、梅毒の説明文は脚注で「梅毒スピロヘータによって引き起こされる、恐ろしい法定伝染病」と書かれていた感じでした。梅毒が「梅毒スピロヘータ」によって引き起こされる、というのは本文中で既に説明されているし、恐ろしいからこそ「法」で「定」められていて、野口が必死こいて研究してるんだろう!もうトートロジー、同語反復のカタマリで説明になっていませんでした。不親切すぎて腹が立つ文章でした。

読書ノートの思い出

小学校高学年のある日、父から「読書ノートをつけなさい」と言われたことがあります。読書好きだが、読みっぱなしの娘に対して、何か思うところがあったのかもしれません。当時特に反対する理由もなかったので「ま、そんくらいならいっか」と読書ノートをつけることにしました。ちなみに読書ノートは、市販のキャラクターノートに父が線を引いて、書名・著者・出版社の欄を作った自作モノです。

しかしこれはまあ、はっきり言って

大 失 敗

でした。第一に、もうとにかく面倒臭いのです。本を読んだら、ノートに書かなくてはいけないのですから。当時の私は児童書ならかなり早く読めたため、その分書く頻度が増える。というわけで、私の脳内では

読むのは楽しいのだけれど、書くのはイヤ→読みたいんだけど書きたくない

→書きたくないから読まない→でも、読みたい!→最初に戻る

の堂々巡りになってしまい、何も手につかないままイライラしてその場から動けなくなり、結果時間を無駄にしてしまうことが多発しました。

第二に、とにかく書きづらいのです。なぜなら記入欄が狭いから。(これは完全に父の責任)本が挿絵付きだったりすると、「著者」の記入欄に「作:〇〇 △△ 絵:□□ ××」と書かなくてはいけないのですが、そのスペースがギリギリ。特に翻訳物だと文字数が増える上に、訳者まで書かなくてはいけない。当然書ききれません。(例としては作:アストリッド・リンドグレーン 訳:下村隆一、みたいな感じ)

私は当時から学習漫画をよく読んでいたのですが、これが一番の難敵でした。学習漫画には「作者」が複数いるのです。大抵「原作・漫画・監修」と3人いるんですが、やはりスペースに収まりきらない。当時は「原作・漫画・監修」の意味すらわかってなかったので、書き写すのが苦痛でした。しかも「監修」はほとんどが大学の偉い先生で、名前に使われている漢字が難しくて書くのが面倒臭く、場合によっては書けなかったり。(国語の成績が良かったとはいえ、所詮小学生でした)

そもそも、どんな本をノートに書けばいいのか。初回読みの本しか書いてはいけないのか、同じ本を何度も読み返した場合は、その都度書くべきなのか。わからない。父に聞けばよかったんですが、なぜか毎度毎度聞きそびれて、いつもイライラしていました。

以上の理由で、じきに読書ノートには、ミミズののたくったような平仮名での殴り書きや、「〃」の記号が並ぶ状態になり、最終的には放置されました(爆)父は何も言いませんでした。ああ良かった。しかし、父の目的はなんだったのか。いまだによくわかりません。

2年ほど前、図書館から借りてきた読書術の本に「読書ノートはつけるな。面倒くさくて続かないから」と書いてありました。ええ、仰る通りで。もう首がもげるほど頷きましたね。私にとっては、百害あって一利なし。危うく読書が嫌いになりかけました。「読みたいんだけど書きたくない!読みたいんだけど書きたくない!」の状態で動けない苦しさは、もう二度と味わいたくないです。

読んではいけない本 in 図書室

小学校低学年の頃、国語の時間がたまーに読書の時間になることがありました。1時間、図書室内の好きな本を好きに読んでいいのです。本の好きな私にとって、超幸せな時間でした。高学年になると、いつの間にか無くなってしまいましたが。

小学3年時の担任の先生は、マンガが嫌いな人でした。それ自体は個人の嗜好なので別にいい。問題なのは、読書の時間の前にわざわざ「マンガは読んではいけません!」と注意してくること。自分の好みをクラス全体に強要してくるんですよ。私は、先生の言う「マンガ」とはいわゆる「ストーリーマンガ」、DRAGON BALLやSLAM DUNKみたいなものだと解釈していました。その類いのものは、図書室にはない。ないものをわざわざ「読むな!」と言ってくる理由が、わかりませんでした。「先生がなんか意味不明なこと言ってる。ま、気にしないどこ。」と、構わず自分の好きな本を読んでいました。

ら、注意されましたよ。

「その本は読んではいけません!」と。

私が読んでいたのは「学習漫画」。単なるストーリーマンガではなく「学習」漫画。「学習」なのにダメな訳?読んではいけない理由がわからない。そもそも、

読んではいけない本がなぜ図書室に存在するのか?

先生からの説明は何も無し。なので「先生は何か勘違いをしている。私は間違ったことはしていない」と脳内で結論を出し、構わず読み続けました。

そして、注意を無視して読書を続ける私。に対して、やらしいことに先生は私の友達を使って注意してくるのです。「その本読んじゃいけないんだよ」友人達がしつこく迫ってくるのですが、余計意地になって読み続けました。「読んじゃいけない本がなぜ図書室にあるんだ!校長先生がオッケーのハンコを押したからだろ!図書室にある本は読んでいいんだよ!何でみんなわからないんだ!」(内心絶叫)もう情けないやら理不尽やら、本の内容と相まって最終的には半泣きで読んでいました。

私はどうすればよかったか?一番無難なのは「図書室中の学習漫画をゴミ箱に放り込む」ですかね。「読んじゃいけない本が図書室に存在するのは、おかしい。だから捨ててあげた」と言えばまあ、筋は通っていますし。親呼び出しになっても、私は別にいいので。

しかし校長先生が購入・設置を許可した本を、平担任ごときが勝手に規制するのは越権行為では?

ちなみに、私が読んでいたのは「学習漫画 世界の偉人 マザー・テレサ」です。そんなにヤバイ本ですかね?

「はだしのゲン図書室撤去騒動」を聞いて思い出しました。

自分の読む本は自分で決めるものです。結果トラウマになっても、それは自己責任(経験有り)。そもそも、学校の図書室には有害図書も18禁もありません。そこまで予防線を張る必要はないのでは?

痴漢考

 あれは確か高校二年の時だったか、学年集会で一学年全員(約300人)が体育館に集まった時、ふっと思ったのです。

この場の男子(約150人)のうち、将来何人が痴漢で捕まるのだろう、と

本当に自然にふっと頭に浮かびました。誰かの入れ知恵では当然なく、私は男性憎悪者ではないはず、なのに。

一日数十件の痴漢事件が日本全国で発生しているのだから、将来的に同学年のうち一人二人は捕まってもおかしくないよな、というある意味単純な推測でした。

最近の調査で、「痴漢の大半は普通のひと。フツーに4大卒リーマン、ふっつーの妻子持ち」ということが明らかになりました。つまり、私の考えは極端ではあるものの「当たらずとも遠からず」だったということです。

蛇足:この考えを家人に話したところ、「怖い!怖いよ!黒すぎ!何その考え!イタリアンジョークかよ!」という強烈な反応が返ってきました。そんなに変ですかね?それにイタリアンジョークってこんなんなのでしょうか?

嬉しくなかったプレゼント

皆さんは、嬉しくないプレゼント、もらったことがありますか?私はあります。

あれは小6進級時のことでした。両親が満面の笑みで「進級おめでとう!プレゼントだよ!」と渡してきた、それは「マンガ 日本の歴史 全22巻セット」。ですがはっきり言って

まーったく嬉しくなかった

「今更なんだよ、遅いよ」とすら思いましたね。口にも出しました。とにかく不愉快で、ずーっとブーたれていました。なぜか?

すでに学校の図書室で読み終えてしまったから。2年弱かけて。

続巻がないことに苛つきつつ、図書室内で探したり返却を待ったりして、2年弱かけてようやっと読み終わった。そのことに一種の達成感すら覚えていた。そこに「プレゼントだよ★」といきなり全巻を投げてよこされた訳で、それまでの自分の努力を全否定された気がしてしまったのです。「あの2年弱の苦労はなんだったんだろう、と。どうせなら世界史や中国史が欲しかった、というのが本音でした。

そして不快感に輪をかけたのが絵柄。「マンガ 日本の歴史」は当時絵柄が2種類あったのですが、よりにもよって私の苦手な絵柄の方だったのです。偶然とはいえ、これはないだろう…両親は知らなかったとはいえなぜわざわざ….ほんのり絶望してました。

せっかく両親がくれたんだから、と付き合い&義理でざっと目を通したのですが、やっぱり面白くない。ストーリーは知ってる上、新たな発見がある訳でもなく。おまけに絵柄は苦手だし。にも関わらずこのセットは、それから10年弱、我が家に鎮座していました。読むものが何もない時にパラパラめくってみる、という存在でしたが、はっきり言って時間の無駄だったな、と今となっては思います。目を通した後は、とっとと古本屋に売るべきでした。なぜ売らなかったか?というと、当時の私にとって古本屋は馴染みのない存在でしたし、「両親からのプレゼント」ということが引っかかって処分ができませんでした。

そしてその後、色々なマンガを読み込んでいくうちに、「マンガ 日本の歴史」の漫画表現そのものにも違和感を覚えるようになりました。マンガ、という形を活かしきれてないんじゃないか?と。

一例を挙げるなら、尾崎咢堂の桂内閣弾劾演説の描写です。「マンガ 日本の歴史」では、争っている二人を遠くから描いている、カメラでいうならかなり引いて写している状況で、実に迫力に欠ける描写。言論の力でもって内閣が倒れた、記念すべき出来事なのだから、もっとドラマチックに描くべきでは?

例えば、金田一少年的に描いてみる、とか。カメラを尾崎目線にして、尾崎が「あなただ!」と桂首相を指差すシーン、ズームにした桂首相の周りにベタフラッシュ。首相の顔にはタテ線を引いて顔面蒼白ぶりを表現。のようにしてみたら、もっと迫力が出るのでは?(なぜか私の脳内では、池田理代子的な絵柄で展開されました)どなたか描いてくれませんかね?結構いい感じになると思うのですが。