リアル黒犬騎士団?

毎日フツーに生活している中で、「マンガと現実の奇妙な一致」に遭遇することが、たまにあります。そういう時って、本当に驚きますよね!「まさか!」「マジ!?」って。最近、1番ホットだったのは手塚治虫の「オミクロン!」でしょうか。

それは私の場合、マンガ「ベルセルク」の黒犬騎士団でした。ダークファンタジーの先駆けにして金字塔である本作が、作者の急逝により未完の傑作になってしまった事は、大変残念です。ご冥福をお祈りいたします。

さて、作中でも一・二を争う極悪集団であるこの連中と現実にそっくりな奴らがいた!と知ったのは15年ほど前のこと。

それは、悪名高きナチスの部隊の中でも、とりわけ評判の悪かったという第36SS武装擲弾兵師団です。ディルレヴァンガーの部隊、といったほうがわかりやすいでしょうか。(詳しくはリンク先をどうぞ)知ったきっかけは、Wikipedia上の徘徊です。ちなみに、辿った経路は「日本の事件」→「福岡猫虐待事件」→「ディルレヴァンガー」でした。

両者の共通点は

  • 戦時中の兵士不足を補うために元犯罪者を集めて作られた部隊 
  • 規律はあってないが如し
  • 戦闘そっちのけで虐殺・掠奪・強姦
  • 国の恥と呼ばれている

ですかね。手元にベルセルクの10巻がないのでうろ覚えですが。知った当時は「そっくりじゃん!」と驚いたものです。

これは偶然の一致なのか、それとも作者が知っていてモデルにして黒犬騎士団を作ったのか、調べた範囲ではわかりませんでした。しかしここまで一致するのもスゴい。

主人公のガッツと、鉄腕ゲッツ(中世ドイツに実在した義手の騎士)、こちらは完全に偶然の一致らしいです。(昔、何かで読んだ)

しかし1番怖いのは、ワイアルドは魔物だけどディルレヴァンガーは人間だということです。人が人相手にここまで残虐非道なことができるなんて。生きてる人間が1番怖いという話はホントですね。

珪藻土バスマットのコワイ話

…というと2021年1月現在、誰しも真っ先に連想するのは、アスベスト問題でしょう。珪藻土製のバスマットなどに有害なアスベストが混入しており、削ると飛散して健康被害をもたらす可能性があるというもの。ニトリの珪藻土バスマットにアスベストが!というニュースを聞いて、「あれ?カインズじゃなかったっけ?」と思いきや、どっちもだったというorz。その後別の会社の製品でも発覚し、年末から回収騒動になっているアレです。

いや〜、しかしここ2〜3年で珪藻土製品、急に増えましたね。インテリアショップのみならず、¥100ショップでも売り出す様になり、製品もバスマットから始まって、茶さじやら歯ブラシ立てまで。

「材料、足りてるのか?」

「¥100で売って、採算取れるのか?」

と、不安に思っていたところでした。そこに飛び込んできたこの騒動、「あー、そっちか」とある意味納得してしまうところがありました。問題は材料ではなく、それを加工する過程にあった訳です。安価すぎる商品では安全性の高い加工をした場合のコストが回収できない、しかし低コストの加工では安全性が確保できなかった、というところですか。(だから、アスベストが混入してしまった?)

ちょっと気になるのが、製品の危険度の違いです。バスマットは削ると危険、ですが普段は顔から遠いところで使用します。これに対してコースター、削ることはほぼ無い製品ですが、普段から顔に近いところで使用します。私としては、コースターの方が危険度が高い気がするのですが、実際のところどうなんでしょう?

珪藻土バスマットのコワイ話ですが、私の脳内にはもう1つありました。それは、3年ほど前に立ち読みしたホラー漫画(某実録心霊雑誌に掲載)。

「通販で買った珪藻土バスマット、なんとそれは珪藻土ではなく、人の骨でできていた!」

というストーリーでした(うろ覚え)。アスベスト入りバスマットと、人骨入りバスマット、どっちがコワイでしょうか?怖さのベクトルが違うだけで、どっちも同じ位コワイですね。

蛇足:我が家では、珪藻土バスマットは使っていません。「ビシャビシャにならない・洗濯不要、イイなぁ!」とは思ったのですが、「冬場、超冷たい!」という話を聞き、アッサリ諦めました(当方しもやけ持ち)。カバーがあるみたいですが、そこまでして使う予定はないですねぇ。結局、洗濯しなくちゃいけないし。塩の容器に入れるドライングブロックは大活躍なんですが。

「デビルマン」にまつわるアレコレ

永井豪のマンガ「デビルマン」。三浦健太郎やCLAMPにも影響を与えたという、傑作と名高い作品です。実は私読んだことがないのです、がストーリーは知ってます。なぜかと言いますと、この作品はマンガ評論等で引き合いに出されることが多く、度々ストーリーの説明を読んだり、引用されたコマを見たりしていたので。デビルマンが傑作である故の事情ですな。

2003年頃、「デビルマンが映画化されるらしい」という情報が流れた時には、素直に「映画化!すごい、さすが傑作!」と思ったものです。と同時に、傑作を傑作として映像化するのは大変そうだと予想できましたので、同じくらい不安を感じていました。「うまくいくんだろうか?」と。役者さんが聞いたことのない人ばかりだったのが、それに拍車をかけましたね。それはさておき「映画版 デビルマン」、前宣伝が非常に気合入ってた事をよく覚えています。確か、non-no(言わずと知れた女性ファッション誌)にすら特集のページがあったくらいです。「ターゲットは誰だよ?」と当時から疑問でしたが。

しかし映画公開後(2004年)、不思議なことにほとんど論評を見なかったのです。拍子抜けしましたね。あの気合の入った宣伝は何だったのかと。ただ一度だけ、コンビニで立ち読みした雑誌に論評の記事を発見!ですがそれは、

「やっぱり、原作は素晴らしい!!」

というトーンに終始していて、

「んじゃ、映画はどーなんだよ?」

と、読後にツッコミだけが残る記事でした。

結局「映画版 デビルマン」は映画作品として、どうだったのか?何もわからず悶々とすること数年後、のある日。ふらふらネットサーフィンしていたら、

見つけてしまいましたよ。ウィキペディアの「文春きいちご賞」のページで。

「文春きいちご賞」とはこんな賞。「最低映画賞」、つまり「映画版 デビルマン」はハッキリ言って駄作だったことが数年越しに発覚。

その後、オタク評論(確か唐沢俊一と岡田斗司夫の対談本)やら、Twitterやらで「駄作」・「血涙が出てくる」等、クソミソに貶されているのを何度も目撃しているうちに、少し見てみたいと思ってしまいました。動機はズバリ、怖いもの見たさです。「そんなにヒドイのか?」と気になってしまって。ですが、その前に原作を読まなければいけないんですよね。これは少しハードルが高いな、と悩んでます。2、3日は魂飛んじゃって、何も出来なそうです。

蛇足:「デビルマン」と「寄生獣」を並行して読むと、これまた色々と発見があって面白いらしいと聞きました。ですが、これは「デビルマン」単体よりも数段ハードルが高そうです。家人曰く「多分頭、壊れるぞ」、とのこと。その点、全力で同意(笑)。でも人生100年あるのだから、いつかはやってみたい!と、ついつい考えてしまいます。

「努力不要論」と「7SEEDS」

注意!今回の記事は、少女漫画「7SEEDS」のネタバレを含みます。知りたくない方は読まないで下さい。

最初にざっくり結論を書いてしまうと、脳科学者・中野信子氏の

「努力不要論」(フォレスト出版)と、SFサバイバル少女漫画「7SEEDS」(田村由美 小学館)の内容が脳内でオーバーラップした

という内容です。(7SEEDSアニメ化、おめでとうございます!!)

なかでも「努力不要論」第二章の「そもそも日本人にとって努力とは何か」の内容が肝です。まとめると以下のようになります。

  • 遊びは脳の栄養
  • 本来「遊ぶ」というのは、とても高尚なこと
  • ヒトは、努力よりずっと、遊びが必要な生き物
  • 役に立つことしかしない人間は家畜と同じ
  • 野蛮というのは要するに「役に立つ」とか「儲かる」ということ
  • 役に立たないことができるのは、人間が高度な文化を持つ証
  • エジプトのピラミッドも(中略)ゴダールの映画も手塚治虫の漫画も、生きていくうえではまったく必要のない、場合によってはぜいたくな事物。しかし、だからこそ、人間にとって、大切なもの
  • 無駄な部分への視線がない人は、人を傷つけることを厭わないもの

そして中野氏は言っています、「努力家は野蛮人」だと。

さて「7SEEDS」ですが、14巻の中盤以降、サバイバルの訓練を受けたエリートチームである「夏のA」と、その他のメンバーとの間でいざこざが起こるようになります。特に「夏のA」の「安吾」が「春チーム」の「雪間ハル」を殴った挙句、最終的に沼に突き落とすという事態に発展。この「安吾」という人は、元々その他チームのメンバーを「一般人」と呼んで見下し、「ハル」が他の「夏のA」のメンバー・小瑠璃と仲良くしていることに苛立っていた、という描写があったのですが、読んだ当時は上手く理解できませんでした。「ここまでするか?そしてなぜこんな形で爆発する?」と。

それが、上記の「努力不要論」の内容によってようやく理解できました。安吾がハルを沼に突き落とす、その直前のやり取り(p173以降)にヒントがありました。

野球だのサッカーだの 生きるのに必要ないだろう 暇と余裕のある人間のすることだ

7SEEDS、14巻 p173より 

と言った安吾に対し、ハルが行なった反論が(他キャラのセリフが間にあるのですが、割愛します)以下。

ハル:あんたら趣味とか生きがいとか ないの

安居:だからそんなのは暇なヤツが

ハル:じゃあなんで 戦時下でピアノを弾くのさ 絵を描きながら飢え死にするのさ 内戦のさなか歌を歌うのさ ボールを蹴るのさ 人として生きていくためじゃないか そういうことがわからないから すぐ暴力に走るんだよ 

7SEEDS、14巻 p174より

というもの。

無駄な部分への視線がない人は、人を傷つけること厭わないもの」という文章、初めて読んだ時はイマイチピンとこなかったのですが、「7SEEDS」にて「実例」を見せつけられた感じです。なるほど、こうなるのか、と。

音楽一家に育ったハル。チームに入れられたのは、音楽の才能を買われて、の事。そんなハルにとって、「生き残り技術はピカイチだが、それ以外は何もない」という「夏のA」のメンバーは「空虚な野蛮人」であり、そしてその空虚さに無自覚なまま高圧的に振る舞う安吾への反発が、上記のセリフにつながったのではないか。そして安吾としては、生き残る事すら危うく、特技が「無駄な事」なのにチーム入りし、挙句小瑠璃に近づくハルは足手纏いの上、身の程知らず。両者の間の「超えられない壁」が事件を引き起こしたのではないか、と思うわけです。

蛇足:「7SEEDS」の該当部分を読んだのは、2年程前(漫画喫茶にて)。そして「努力不要論」を読んだのが2019年の5月頃。脳内で両者が結びついたのが、2019年の晩秋。どうやら、脳内化学反応に時間がかかったようです。しかし、意外な所で意外な物が結び付くのは結構楽しいです。

聖☆おにいさん②

前回に引き続き聖☆おにいさんの話です。日常生活のあっちこっちで「聖☆おにいさんネタ」に遭遇した!という体験をまとめてみました。いやぁ、意外なところで意外にあるもので。該当する巻数がバラバラなのは、気づいた順から書いているためです。

  1. 大塚国際美術館にて。ラファエロ作「キリストの変容」を見た瞬間、「丘の上の預言者オフ会」と口を衝いて出る。                エリヤとモーゼがイエスの前に降臨したシーンを描いた絵です。(13巻、第91話)
  2. NHKのニュース(バーミヤン絡み?)で、「焔肩仏」という単語を聞いた瞬間「焔肩仏なう!」のセリフが頭に浮かぶ。              ブッダとイエスが消防団に入る話。焔肩仏とは、ゾロアスター教の影響を受けて作られた仏様らしいです。(5巻、第34話)
  3. 国立西洋美術館で開催されたルーベンス展にて。「聖アンドレの殉教」が「元気はつらつイエーイ十字」にしか見えない。(11巻、第73話)
  4. 仏教美術の本を読んでいたら。「鳥獣に乗る天や明王はインドの影響が強い」とあり、「例:梵天は鵞鳥」という記述発見。           梵天さんのガチョウが駐禁くらったという話はここからか、と納得。(4巻:27話)ちなみに、帝釈天は白象・閻魔天は水牛だそう。              

宗教の本を読んでいて遭遇するのは、まぁ分かるのですが、NHKのニュースで遭遇したのは流石に驚きました。

ちなみに「聖アンドレの殉教」とはこんな絵です。画像引用は、日経おとなのOFF 2019年1月号の付録から。

聖☆おにいさん① 

大ヒットギャグ漫画「聖☆おにいさん」、初めて読んだのは確か単行本3巻が出た後でした。(知人から借りました)で、さっそく第2話の

「ブッダが手塚ブッダを読んで号泣しているシーン」

を読んで、「あぁ、これは私のツボに合うギャグだ」と直感し、その通りあっという間にのめり込みました。実は小学校高学年の時、手塚治虫の「ブッダ」を全巻読破していたので、(父が図書館から借りてきた)仕込まれたネタの理解が実にスムーズ。5巻くらいまでは単純に、大笑いしながら夢中で読んでいました。

しかし、6巻辺りからあまり笑えなくなってきました。読んでいてもどこかピンとこないというか、

内輪ネタで盛り上がっているのを遠巻きに見ている外野のポジションになっている、

というか。実はその辺りからキリスト教に対するマニアックネタ、特にイエスと弟子たちのエピソードが増えてきたため。キリスト教の知識が乏しい私は、元ネタが理解できなかったのです。という訳で、一時期「聖☆おにいさん」からは遠ざかっていました。

その状況を解決したのが、またしても中野京子の本

名画と読むイエス・キリストの物語  大和書房(現在は文春文庫)

でした。イエスの生涯を数々の名画と共に解説していく内容で、今までぼんやりとしか知らなかったエピソードが、詳しく解説されていました。結果「聖☆おにいさん」の内容が手に取るように理解できまして。「油の塗りすぎでユダに怒られる」やら「知らない、と3回言って鶏が鳴いたら本物」やら、もうおかしくてたまらない。

それ以後、「聖☆おにいさん」の読書に復帰。いつか来るかな〜と思っていた即身仏ネタが、ハロウィンと絡めてきた時(ゾンビという点で)は「そうきたか」と感心しました。他にも、発言小町に投稿するマリア様観葉植物に対して乙女ゲーム張りのセリフを放つブッダ。たくさん笑わせてもらいました。

しかし最近のバンクシーや相撲ネタは、私とは相容れないようで、あまり笑えず。私の笑いのツボと相性のいい話がまた増えたらいいな、と願っています。

この記事を書くために単行本を読み返していたら、「ケータイのアンテナ」、「リア・ディゾン」なんて単語が出てきました。懐かしいなぁ、って雑誌初掲載が2006年、1巻発売が2008年ですもの。そりゃあ懐かしくもなりますわ。リア・ディゾンなんて数年前にママになってますよ。

ちなみに前掲著、「この本は宗教の本ではない」と書いてあるのですが、図書館では宗教コーナーに置かれていました。えぇ、図書館本です。中野先生すみません…

漫画版ナウシカの道化師

映画版よりも深く重いテーマと、広大な世界を描いたと名高い漫画版・風の谷のナウシカ。私も大好きです。今度歌舞伎になる様で。初めて目にしたのは小学校高学年の頃、従姉妹の部屋にてパラ読み。本格的に読み込んだのは中学生の時でした。夢中で読みましたが、あることが心に引っかかっておりました。

それは、トルメキアのヴ王に貼り付いている道化師。特徴をまとめてみるとこんな感じの人です。

  • すごく背が低い
  • 自分より醜い者を見て嬉しがる
  • 鈴のついた縞模様の服を着ている
  • 王様に皮肉言い放題 でも罰せられない
  • 最後はクシャナへの王位譲渡の証人になる

この人はなんなのだろう?専属コメディアンみたいなものかと思ってみましたが、何かが違う。ギャグや寸劇を演ずるわけでもなく。そもそも、なぜこんなに背が低いのか。考えても全く分からない。リア王にも出てきた道化。やっぱり王様に対して皮肉言い放題、でもお咎め無し。一体道化とはなんなのか、しっかりした説明がどこにも見当たらないのです。

この謎を解いたのは、「怖い絵2」を始めとする中野京子氏の著作でした。彼ら道化師は「慰み者」と言われ、召使いというよりペットの様な存在だった。心身に障害のある人が大半(小人症・巨人症など)で、彼らは王侯貴族から「装飾」として「ステイタス」として「富の誇示」として、また「引き立て役」「慈悲深さを演出するため」に集められ養われていた。彼らは人間扱いされていなかったが、それ故に大抵のことでは罰せられなかった権力者を批判しても。それがやがて「道化の特権」となり、知能が正常でも道化になる人が増えた。ということだそうで。

いやはや、衝撃。生きた人間が愛玩物として扱われていたとは。巨人をかき集めた王様がいたことは知ってたんですが、まさか小人まで集められていたなんて。しかし、「障害者はその昔、権力者のペットみたいなものだった」なんて、現代の良識からすると口にすることすら憚られることです。詳しい説明が見当たらないわけです。

これで、疑問は全て解けました。背がすごく低いのは小人症だから。醜いことも道化の才能の一つ。鈴のついた縞模様の服は道化の制服。王様への皮肉は「耳に痛い真実を語る」という大事な仕事。だったのです。

映画「エリザベス」でも似たようなシーンがありました。エリザベスが、豪華なドレスを着た小柄な成人女性(表情が明らかに大人)を抱っこしているシーンです。「侍女?にしては服が豪華すぎるし、侍女を抱っこするのは不自然だな」と思ってたんですが、彼女も「慰み者」の一人だったんでしょう。子供のいないエリザベスの愛玩欲求を発散させるために、小人症のあの人が側に置かれたんだろう、と今となっては推測できます。

「障害者は何をやっても批判されない」というのは、現代でも悪い形で残っている気がします。障害のある人が迷惑行為をしても、なぜか迷惑を被った側がたしなめられる、というアレです。「この子は何もわからないの。怒ってどうするの?」の様に。これはある意味、彼らを人間扱いしてないってことですよね?そして、「自分の立場の強化のために障害者を利用する」というのもやはり残っています。3年前の参院選、「五体不満足」で有名な某氏に出馬要請がきましたが、「わが党は差別しません!」という主張のアリバイ作りに利用されたような感があります。この御仁についてはその内詳しく書きたいです。

蛇足:「奴隷マーケットにおける不具者の値段は、現代のペット市場における珍種と同じく、非常に高価だった」という文、「アルビノのヘビやカメは、ありふれた種類であっても値段が数十倍になる」という話を思い出しました。

参考文献:怖い絵 泣く女篇 中野京子 角川文庫

フィクション作品の固有名詞

現代社会を舞台としたフィクション作品(漫画・小説など)を読んでいると、現実世界のものをもじったような固有名詞が出てきます。

それらの中には、すんなり受容できるものもあれば、そうではないものもあり。受容できないものに対しては、読んでいる方が気恥ずかしくなったりします。ざっと仕分けすると以下こんな感じ。

受容できるもの

  • 人気アイドルグループ 山風・台風
  • 芸能事務所 シャイニーズ
  • 政治家 中田 角治
  • 俳優 本村 哲也
  • アメリカ大統領候補 ジム・ハミルトン

受容できないもの

  • 人気アイドルグループ SMOP
  • 芸能事務所 ジョミーズ
  • ラッキード事件
  • ファッション誌 mom・mon

この違いは何なのか?自分なりに分析してみたところ、まず一つ目に「ひねりがあまりに安直過ぎてパチモンっぽく聞こえるから」、という結論が出ました。一昔前に東アジア某所に存在したという、NITSUBISHI自動車やクリスティナ・ディオールのように聞こえるんですね。それともう一つ「ひねった後の語感が日本語として変だから」というケースです。ダサソー、みたいな。

一方、それなりにアレンジがしてあったり(例:山風)、メインストーリーにほとんど関わらない場合はあまり変な感じはしません。「本村 哲也」なんて顔がまんまキムタクでしたが、その作品中では「世間の人気俳優」としてサラッと出てきただけなので、特に違和感もありませんでした。でも、主人公達が夢中になっているアイドルグループが「SMOP」だったりすると、もうおかしくてたまらない。「MOP」ってなにー?と思ってしまって。(これが後者のパターン)「ラッキード事件」に関しては個人的に一番ウケました。「逮捕されてるのにラッキーって wちょw」という感じで。しかも作中ではみんな大真面目に話しているのが、もうトドメでした。

しかしこうして考えてみると、日本人の名前はアレンジがしやすいため、ある意味ラクなのではないかと思えてきます。「中田 角治」みたいに少し漢字をいじればいいのですから。「東京都知事 大池 百合江」や「永田町のホープ 泉田 信次郎」というキャラが出てきても特におかしくない。(これは今テキトーに考えました)元ネタは、まあ、皆さんわかります、よね?