小学校6年生の頃、歴史の授業で「踏み絵」を学びました。
で、当時から疑問でした。
なぜ、沢山の人が踏み絵を踏まずに捕まってしまったのだろうか?
12歳の私は、キリスト教について詳しくなかったけれど、なんとなく「偶像崇拝禁止」だとは知っていました。なので「踏み絵」なんて偶像そのものなんだから、んなもん別に踏んだって問題ないじゃないか、片っ端から踏みゃいいだろ、と考えていました。単純に解説するとこんな感じ。
キリスト教は偶像崇拝禁止である
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踏み絵は、どこからどうみても偶像である
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踏み絵を踏むことは偶像崇拝を否定することである
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踏み絵を踏むことはキリスト教の教義にかなうことである
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踏み絵はどしどし踏むべし
さて、踏み絵を踏むことはキリスト教の教義上どうなのか?いいのか、悪いのか?教科書にも資料集にも載っていなかった上、うまく言葉にできなくて先生にも質問できませんでした。もちろん内心葛藤を抱えながら踏み絵を踏み、死刑を免れた人もそれなりにいたことは知ってました。(だから隠れキリシタンが存在したわけで)その人たちはイエスやマリアの像を踏んだことを、ずっと悔いていたんだろうか。心に後ろめたさを抱えたまま、その後の長い人生を過ごしたんだろうか。それを考えると重苦しい気持ちになることが、度々でした。
仕方がないので、20歳過ぎてから自分で調べてみました。すると、「踏み絵は踏んでいい」ということが判明。「キリスト教は内面と外面の区分が特徴」なので「偶像崇拝を拒絶する」と思いながら、どしどし踏めば良いとのこと。「イエスやパウロに相談したなら迷うことなく踏めというはず」という名言まで収穫できました。(参考文献:日本人のための宗教言論 著:小室直樹 徳間書店)
この記事を書くにあたり調べ直したところ、踏み絵は初期の頃は成果をあげたものの、後期になるとそうでもなくなった。「内面と外面の区分」の考えが広まった結果、役人の前ではシレッと踏み絵を踏んでおいて、信仰を守る人が増えてきたらしいです。つまり、後ろめたさ一色の人生を送った人は少なかったと推測できます。ああ、よかった。(先のWikipedia参照)しかし初期の頃からこの考えが広まっていたら、キリシタン狩りの犠牲者はもっと少なくて済んだはず。なぜ最初から広まっていなかったのか。残念です。