乙武サンについて8 義手・義足2

そもそもなぜ人は義肢や義眼を付けるのか?その理由は、単なる利便性や「機能の補完」のために留まらない気がします。(現在、義眼をつけても目が見えるようにはならない)それは、「見た目の補完」ですそして、「見た目の衝撃と周囲の精神的負担を減らす」ということ。平たく言うと周囲への配慮・気遣いです。

以前匿名掲示板「ガールズちゃんねる」にて、以下の趣旨の書き込みがありました。

昔、都内の某駅で乙武を見た事がある。一瞬、人間だと思えなかった。置物かと思った。乙武だ、と気づいた瞬間鳥肌がたった

ガールズちゃんねる より

というもの。私は単にこれを、投稿者の差別意識!と切って捨てることはできません。人間(というか生き物全般)は、「普通でないもの」を警戒し、恐怖心を抱くという特徴があります。彼の見た目が、脳にインプットされている「人間」の形態とはかけ離れているため、こんな反応になってしまったのではないでしょうか。大人であってもこの反応ですから、子供はどう感じることか。小学校の児童が「怖い」と言っていた理由も多分この辺でしょう。決して「先生は僕たちと真剣に向き合っているから〜」と言う理由ではなく。大体、そこまで考える小学生はいません。

彼は生まれた時から手足がなかったため、「欠損」という認識がなかったらしいですが、それは彼個人の認識であり、大半の人はどうしたって「欠損」という目で見ます。そしてショックを受けたり、同情したり、その感情を隠すため過剰に褒め倒したり下手に出たり。(’下駄をはかされていた’の下駄の一部は多分コレ)はたまた人によっては拒絶したり。

人は見た目が大事、と言われています。一度親しくなったら見た目は関係ないかもしれませんが、親しくなる以前に見た目で拒絶されてしまっては、人間関係が成立しません。(確か入院中のエピソードにそんな話があった)それでも彼の周りに人が絶えなかったのは、彼の知名度と社会的評判、そして皆分別のある大人だったため、今までこの路線でやってこれた訳です。彼は「障害者もおしゃれをしよう」「見た目に気を使おう」と言いかなり小洒落た格好をしていますが、実は全く見た目に気を使っていなかったのでは?(おしゃれ以前の問題?)見た目の衝撃を減らすために(周囲への配慮のために)義肢をつける、と言う選択をしないのですから。彼の周囲の人は相当気を使っていたと思いますが、彼自身は周囲に対して全く気を使っておらず、そしてそれを当然だと思っていた。彼は、思いやりに欠ける傲慢な人だったのです。

「ありのままの自分を見て欲しい」という気持ちを否定はしません。しかし未成年ならまだしも、30後半になってまでこの姿勢でいたのは、純粋というより幼稚、というか狡猾さすら感じます。以前の記事で「’カタワの甲羅干し’写真はインパクトがすごかった。これが彼の武器か?」と言う趣旨の文を書きましたが、これは事実でしょう。彼は「手足がない」と言うことを武器として世渡りしてきたのです。彼の見た目に衝撃を受けた側がそんな自分を恥じ、それを隠すために配慮したりなんだりするのを利用して、のしあがってきたのですから。

彼にとって「義肢をつけること」は武器を失う事、であると同時に健常者中心社会への迎合であり、謝ったら負け、ならぬ「義肢をつけたら負け」だったのかもしれません。

乙武サンについて7 義手・義足1

彼はなぜ、義手・義足(以下、義肢)をつけないのか?

これ、大抵の人が随分前から疑問に思っていた事だと思います。ご多分にもれず、私もそうでした。但し、途中からですが。

「五体不満足」出版時は単純に

「お金がなくて買えないんだな」

と、思っていました。補助が出ているとは言え、電動車椅子の購入・維持管理には費用がかかる。その上で(脳からの電気信号で動く)最新式の義肢を用意する経済的余裕なんてないだろう、と容易に考えられたので。という訳で、「五体不満足」がベストセラーになった、というニュースを聞いて、素直に「よかったね」と思えたのです。そして「印税で最新式の義肢を買うんだろう」と予想しました

が、彼は何も付けませんでした。ここで例の疑問が浮かぶわけです。なんでだろう?私が思いついた理由は二つ。一つ目は、義肢の性能があまり良くないから付ける意味がない。これがメインの理由だと、義肢の技術が進歩したらその内付けそうな気がします。二つ目は、切断面の形状からして義肢の装着が難しいから。こちらがメインの理由だと、これからも多分付けないだろう、考えられます。どちらがメインの理由なのか、私には判断が付きませんでしたが、多分後者だと勝手に思っていました。

その後10年以上経っても、彼はやはりなにも付けないのです。相変わらず、いつでもどこでも車椅子で参上。義肢の技術は進歩しているだろうから、一つ目の理由ではなさそう。だとしたらこれは二つ目の理由でしょう!と確信。義肢の装着が難しいなら、もうこれはしょうがないです。だから彼が義肢を付けることは、これから多分ないだろうと思いました。「こういう人なんだな」と。でも、何か違和感を感じたんですよね。「メーカーと協力して新しい義肢を開発する」という手もあったはずなのに、彼はそれをやらない、噂すら出てこない。これは大いなる謎でした。

そして不倫騒動の後、平成が終わったあたりで、彼は義足を装着し歩行訓練を開始

義足、付けれたんかい!つーか、今更かい!

思わず呆れと驚きの入り混じったツッコミを入れましたね。なぜこのタイミングで?で、なぜ足が先?

なぜこのタイミングで?というと、一つ目の理由はやはり、仕事がなくなったから、でしょう。今までは黙っていても仕事が舞い込んできたのに、自分で仕事を、センセーショナルな話題を作らなければいけないのですから。二つ目は妻が逃げたから。ただでなんでもやってくれる存在がいなくなったから、自分でやらなくてはいけない事が増えた。ここまでは、簡単に結論が出せます。

で、なぜ、義足を先に付けるのか?利便性を考えるなら、まず義手でしょう?そもそも義足を付けないのは、「転んだ時につく手がなく、危険だから」という理由もあったんですから。手があったら「自分でできる事」が飛躍的に増え、当然介護の負担も減ります。洗顔・髭剃りは言わずもがな(下世話な話ですが)TENGAの後始末だってできる!ってことは性欲発散に苦しむことも激減、複数の愛人もいらなくなる(笑)育児にだって参加できる!と、いいこと尽くめなのに。動機として「東京オリンピックで聖火ランナーをやりたいから」と語っていましたが、では東京オリンピックがなかったら、何もつけなかったのでしょうか?義足装着の理由が内部要因ではなく、外部要因。この人にとっては、周囲の負担を減らすことより、周囲に強烈なビジュアル・インパクトを与える方が大事なんでしょうか。

乙武サンについて6 ヤンキー先生との類似点

2016年、乙武さんが選挙に出る!と聞いた時も別に不思議はなく「まぁ、そうだろうな」と素直に納得していました。彼は「頑張ってる障害者」の代名詞的存在で、安倍政権の掲げるスローガン「一億総活躍社会」に実にピッタリ。明るく爽やかで中高年のウケも良く、ネガティヴイメージも殆どない(不倫バレまでは)人だったので。

しかし、この出世パターンどこかで見たような気がしました。特に仕事ができるわけでなく、すごい大発明・大発見をしたわけでもなく、世の中を変える運動をしているわけでもない。が、特殊すぎる生き方がメディアで話題を呼び、本が売れ(ついでに名前と顔も売れ)、最終的に政党から声が掛かって政界入り、というパターン。

えぇ、先達がいました。それは

「ヤンキー先生」事、義家弘介氏。

義家氏の政界進出は2007年なので、約10年ぶりの出来事となりますね。両者の共通点をまとめてみるとこんな感じ。

  • 特に仕事ができるわけではない
  • 何か大発明・大発見をしたわけでもない
  • 何か社会運動を展開していたわけでもない
  • 特殊な生き方が注目され、メディアの寵児となる
  • 著書がベストセラーとなる
  • 顔と名前が売れる
  • 二人とも1970年代生まれ
  • 二人とも教員経験有り
  • 二人とも教育委員経験有り
  • しかし選挙話が来た途端、二人とも任期途中で辞任する
  • 自民党から参議院出馬を持ちかけられる
  • 一部にアンチがいる
  • 二人とも「年下の、自分に自信のない女性」と結婚(←オマケ)

こうして並べてみて導き出される結論は、両者とも「強烈な自己顕示欲」と「強烈な上昇志向」を持っていると言った所でしょうか。

さて義家氏と乙武氏、選挙に強そうなのはどちらか?と考えると、即乙武氏になりそうなものです。前述のように、彼にはネガティヴイメージがほとんどなく、オマケに「障害がある」という点で、どこか批判がしづらい。(俗にいう’障害バリア’?)一方の義家氏は「元不良」。そして「元教師」でありながら「元教え子と結婚」という過去があり、これはどうしたって批判の対象になります。それに氏の言説や言動については、多くの矛盾が指摘されていました。

ですが、フタを開けてみれば当選したのは義家氏。乙武氏は不倫騒動のため、出馬すらできなかったためです。2007年と2016年、何が違ったかと考えるとやはりネット空間の発達でしょう。2007年当時も、義家氏に批判的な人たちが一部で活動していましたが、それは一部の週刊誌に載ったくらいで、大きなムーブメントにはなりませんでした。(結果、義家氏当選)しかし、乙武氏の不倫騒動は週刊誌発でありながらネット空間で増殖し、それがリアル社会を動かしてしまったのです。

歴史は繰り返す。ただし二度目は茶番として。

という言葉を思い出します。取り敢えず、税金の無駄遣いが避けられたのは良い事でした。しっかし、世の中何が起こるかわかりませんね。

蛇足:乙武氏の不倫騒動で、「パナマ文書」問題が影に隠れてしまったことを「陰謀だー!」と騒ぐ人はいないのだろうか?

参考文献:「若者論」を疑え! 後藤和智 宝島社新書

「努力不要論」と「7SEEDS」

注意!今回の記事は、少女漫画「7SEEDS」のネタバレを含みます。知りたくない方は読まないで下さい。

最初にざっくり結論を書いてしまうと、脳科学者・中野信子氏の

「努力不要論」(フォレスト出版)と、SFサバイバル少女漫画「7SEEDS」(田村由美 小学館)の内容が脳内でオーバーラップした

という内容です。(7SEEDSアニメ化、おめでとうございます!!)

なかでも「努力不要論」第二章の「そもそも日本人にとって努力とは何か」の内容が肝です。まとめると以下のようになります。

  • 遊びは脳の栄養
  • 本来「遊ぶ」というのは、とても高尚なこと
  • ヒトは、努力よりずっと、遊びが必要な生き物
  • 役に立つことしかしない人間は家畜と同じ
  • 野蛮というのは要するに「役に立つ」とか「儲かる」ということ
  • 役に立たないことができるのは、人間が高度な文化を持つ証
  • エジプトのピラミッドも(中略)ゴダールの映画も手塚治虫の漫画も、生きていくうえではまったく必要のない、場合によってはぜいたくな事物。しかし、だからこそ、人間にとって、大切なもの
  • 無駄な部分への視線がない人は、人を傷つけることを厭わないもの

そして中野氏は言っています、「努力家は野蛮人」だと。

さて「7SEEDS」ですが、14巻の中盤以降、サバイバルの訓練を受けたエリートチームである「夏のA」と、その他のメンバーとの間でいざこざが起こるようになります。特に「夏のA」の「安吾」が「春チーム」の「雪間ハル」を殴った挙句、最終的に沼に突き落とすという事態に発展。この「安吾」という人は、元々その他チームのメンバーを「一般人」と呼んで見下し、「ハル」が他の「夏のA」のメンバー・小瑠璃と仲良くしていることに苛立っていた、という描写があったのですが、読んだ当時は上手く理解できませんでした。「ここまでするか?そしてなぜこんな形で爆発する?」と。

それが、上記の「努力不要論」の内容によってようやく理解できました。安吾がハルを沼に突き落とす、その直前のやり取り(p173以降)にヒントがありました。

野球だのサッカーだの 生きるのに必要ないだろう 暇と余裕のある人間のすることだ

7SEEDS、14巻 p173より 

と言った安吾に対し、ハルが行なった反論が(他キャラのセリフが間にあるのですが、割愛します)以下。

ハル:あんたら趣味とか生きがいとか ないの

安居:だからそんなのは暇なヤツが

ハル:じゃあなんで 戦時下でピアノを弾くのさ 絵を描きながら飢え死にするのさ 内戦のさなか歌を歌うのさ ボールを蹴るのさ 人として生きていくためじゃないか そういうことがわからないから すぐ暴力に走るんだよ 

7SEEDS、14巻 p174より

というもの。

無駄な部分への視線がない人は、人を傷つけること厭わないもの」という文章、初めて読んだ時はイマイチピンとこなかったのですが、「7SEEDS」にて「実例」を見せつけられた感じです。なるほど、こうなるのか、と。

音楽一家に育ったハル。チームに入れられたのは、音楽の才能を買われて、の事。そんなハルにとって、「生き残り技術はピカイチだが、それ以外は何もない」という「夏のA」のメンバーは「空虚な野蛮人」であり、そしてその空虚さに無自覚なまま高圧的に振る舞う安吾への反発が、上記のセリフにつながったのではないか。そして安吾としては、生き残る事すら危うく、特技が「無駄な事」なのにチーム入りし、挙句小瑠璃に近づくハルは足手纏いの上、身の程知らず。両者の間の「超えられない壁」が事件を引き起こしたのではないか、と思うわけです。

蛇足:「7SEEDS」の該当部分を読んだのは、2年程前(漫画喫茶にて)。そして「努力不要論」を読んだのが2019年の5月頃。脳内で両者が結びついたのが、2019年の晩秋。どうやら、脳内化学反応に時間がかかったようです。しかし、意外な所で意外な物が結び付くのは結構楽しいです。

乙武サンについて5 女王蜂?

「五体不満足」以来、基本クリーンなイメージでひた走ってきた乙武氏。ですが、週刊新潮の不倫報道で全てがガラリと変化。不倫相手が「最低5人・最高50人」というのは、実にたまげましたね。そして、こんな下半身暴走族がいるから、梅毒の流行が止まらないのか!と別方面で納得しちゃいました。他にも続々と暴かれ出した彼の裏の顔。

モラハラと並んで衝撃だったのは

「筆談ホステス、こと斉藤里恵氏の秘書引き抜き」

ですかね。障害者が障害者の足を引っ張っている!!この状況がまるで「障害者の代表は俺一人で十分だ。その他大勢は引っ込んでろ!」と言っている様に受け取れるんですよね。この感じ、何だったっけ…と思ったらぴったりな単語がありました。それは、

クイーンビーシンドローム(女王蜂症候群)

クイーンビーシンドロームとは、男性社会で成功した女性が、自分の地位を守るために他の女性の活躍を邪魔しようとすること、です。彼はこの障害者バージョンなのでは?結果として斉藤氏の邪魔をしているわけですから。聴覚障害者の支援(タイピング・復唱)と身体障害者の支援(身体的介護)はまるで方向性が違うのに、わざわざ斉藤氏の秘書を引き抜いたのも、実に怪しい。彼が他の障害者との接点を殆ど持たないことも、この推測を補強する材料ですね。まぁ、ホイホイ引き抜かれる秘書も秘書ですが。モラハラ四十路オヤジの尻拭い(文字通り)ってそんなに魅力的な転職先なのか。

彼は不倫騒動後になって「自分は障害者の代表じゃない」と言っていましたが、発言するのが10年以上遅い。「誰か代わってくれ」という趣旨の発言もしているが、それが本音だとは到底思えない、その理由が上記の内容です。2017年以降は「身長100センチのママ」こと伊是名夏子氏や、「事故で三肢切断青年」と対談しているみたいですが、「今更?」感が否めません。それに彼らはどちらかというと「障害を感じさせない障害者」であり、「感覚が限りなく健常者に近い人」です。乙武氏は「The 障害者」な人との接触を意図的に避け続けている気がします。

彼の妻(今は元妻)のコメントも脱力モノでした。「乙武はなんでもできるイメージがありますが、ドアも一人で開けれない。風呂もトイレも介助が必要」というアレ。彼がいつも自信満々なのは、なんでも一人でできるから、だと私思っていたので。何から何まで人任せなのに、なぜあんなに態度がデカイのか、別に卑屈になることもないが、もう少し謙虚にできないのか、と。それにしてもモラハラはなかろうよ。

「五体不満足」の内容が「僕はあれもできる!こんなこともできる!」ばかりだったので、まさかここまで人任せだとは想定外でした。一応、「一人で用を足すことができない」と一文だけ書いてありましたが、印象に残っている人は少ないでしょう。(アリバイ作り?)「大事なのは何が書かれているか、ではなく何が書かれていないか、だ」という言葉がありますが、この見方で「五体不満足」を読んでみると疑問がたくさん出てきます。家庭科の調理実習の時は、どうしてたのか。修学旅行の班行動時のトイレは、誰が介助してたのか、等々。まさか班のメンバーじゃないですよね。(と信じたい)せっかくの修学旅行で、クラスメートの尻拝みたい人はいないですよ。

どーでもいい疑問:上の方で梅毒云々書きましたが、はて、乙武氏は一人でコンドームがつけれるのでしょうか?そこからして相手任せの状態でドン・ファン気取ってたとしたら、相当イタいです…

乙武サンについて4 「五体不満足」を振り返る

大ベストセラーとなった乙武さんの著書、「五体不満足」。出版は1998年、私は当時中学生でしたが、読んだのは成人してからになります。(母がどこぞから借りてきた本でした)

まず、いい意味で予想を裏切る内容でした。私はてっきり「障害ゆえの苦労や周囲の差別・無理解・偏見がありましたが、なんとか乗り越えて、現在楽しくやってます!」という内容かと予想してたのですが、そうじゃなかった。障害ゆえの苦労や周囲の無理解などほとんど無く(0でもなかったが)周囲に自然に溶け込み、毎日楽しく明るく前向きに!という内容でした。そんな障害者(しかも重度!!)がいるなんて想像したこともなかったので、これはかなり新鮮でした。「こんな人っているんだ〜」と。

しかし、

全く感動しなかった

のもまた事実です。単純に「症例:その1」でしかなかった。そもそもどこに感動のポイントがあるのか、いまだによくわかりません。どなたかに教えて頂きたいくらいです。

そして何度か読んでいるうちに「本当か〜?」とモヤモヤ感が深まっていったのも本当なのです。

まず、一つ目としては、「乙武さんの周りに、やたらと優しさ溢れる親切で物分かりのいい人々」が大集合していたこと。こんなことってあり得るのでしょうか?確率的に。いくら「世田谷は民度が高い」と言えども、ここまでなのか?

ついで二つ目は、乙武さんが、健常のクラスメートの中にごくナチュラルに溶け込んでいたこと。ここは、大抵の人にとっては感動ポイントなんでしょうけど、私にとっては引っ掛かるポイントでした。いえ、私も最初は素直に「本当にこんなことってあるんだ〜。いい人ばかりのいいクラスだな」と思ってたのですが。何度か読んでいるうちに違和感が沸いてきたのです。

あまりにうまく行き過ぎている…

と。例えるなら、ハイキングに行ったつもりが、スーパー林道のウォーキング大会だった様な。あまりに滑らかにスイスイと進んでいて不自然なのです。

なんでこんな考えに至ったのか?実は私、小中合わせて5年程、障害児と同じクラスで過ごしたことがあります。その時の記憶と比較してみると、この辺りの描写は疑問符がつくのです。彼ら障害のあるクラスメートに対して、乙武さんのクラスメートの様にごく自然に接することができたか?面倒を見ることも厭わず優しくできたか?と、考えるとどうしても「否」という結論が出てしまう。

  • 元クラスメート→知的と身体の重複障害者が大半
  • 乙武さん→知的障害が無い手足がないだけ

という違いのせいかもしれない、と当初考えてみました。しかし本当にそれだけか。例え会話が成立したとしても、「手も足もない肉体」はそれだけで衝撃です。実はクラスメートにかなりの精神的な負荷を掛けていたのでは、と推察できますが、その辺りの事情がほとんど書かれていない。なぜなんでしょう?私も子供時代の反省を踏まえて、障害者に対して自然に接するコツ・秘訣、みたいなのが書かれているかも!ぜひ吸収しなきゃ!と目を皿の様にして読んでみたのですが、これまたどこにも書かれてないんですよね。つまり、いくら熱心に「五体不満足」を読み込んでみても、その辺の身近な障害者に対して応用ができないのです。そして何度も読んでいるうちに段々と虚しくなっていって、ついには読めなくなるのです。

つまり「五体不満足」はかなり不思議な本なのです。最初の1回・2回読んだ直後は「みんなやればできるんだ!差別のない明るい世の中を作るんだ!」と明るく前向きな気持ちになれるのに。それが5回目・6回目となると、「で、具体的にどーすりゃいいの?結局’障害を感じさせない障害者’ならともかく’The 障害者’という人に自然に接するのはかなり難しいんじゃない?あれは乙武さんだからできたことでしょう?」と、どこかシケた投げやりな、諦めに似た気持ちになってしまうのですから。

乙武サンについて3 イタリアンレストラン編

イタリアンレストランの一件について、まず第一印象は、

「すごい偶然だな

でした。

  • たまたま男性スタッフのいない日に、
  • たまたまオサレスーツ着用で、
  • たまたま妻でない女性と「隠れ家的レストラン」で食事、

なんてそうそうある事じゃないです。しかし全くのゼロ、とも言い切れない。まぁ、確率100万分の1くらいかな〜と思っていました(←普通はそれをゼロと言うが)。妻でない女性と二人っきり、と言う点は一瞬「ん?」と思ったのですが、不倫の「ふ」の字も浮かびませんでしたね。その発想自体がなかったし、「不倫」だったら自分からここまで言い触らすなんて有り得ない、と考えるのが普通ですから。一部の鋭い人たちはこの時点から疑っていたらしい、と後に聞いて変に感心してしまった位です。

しかし、明らかに違和感を持った所が3つありました。

一つ目は、乙武さんが車椅子から降りて歩かなかった事。「スーツが汚れるから」と言う理由らしいですが、それっぽっちの理由で歩かなかったのは不自然に感じたのです。彼はいつも「僕はなんでもできる!」と自己PRしていますし、そもそも「五体不満足」の記述では歩けるはず、なのになんで自力で階段を登らないのか。そうしたら、

実はこの人、本当は歩けないんじゃないのか?

と言う疑念が沸きました。きっと、同情されたくないから、なめられたくないから、強がってハッタリかましてるんじゃないか。周囲も優しいからあえて指摘しないであげているのだろう、と思えてきたのです。考えてみれば、乙武さんはいつでもどこでも車椅子で参上していましたしね。私は、それまで彼が自力歩行している姿を見たことがなかったのです。野球の始球式の画像を見たのは、不倫騒動後が初です。

二つ目は、「自分が困っていたらいつも友人が助けてくれる!」と、自信満々で言い切っていた所。これにはかなりの違和感がありました。なぜ、そこまで言い切れるのか。「信頼しきっている」と肯定的な解釈もできますが、どうもそうじゃないニュアンスが感じ取れまして。「友人」だって色々と都合があるでしょうよ、時間的・体力的・精神的に。乙武さんのこの言い方では、まるで相手がお助けマンか便利屋のように聞こえます。そもそも彼がいつも助けてもらえたのは、彼が友人連中の中で「唯一の障害者」だから、じゃないでしょうか。他にも障害者がいたら「人手」が分散してしまって、そこまで助けてもらえないのでは。彼が障害者ではなく、いつも健常者とつるんでいる原因の一つは、これかもしれません。「今まで、車椅子可かどうか調べたことがなかった」って、周囲からどんだけ配慮されていたんでしょうか。これを「自慢」と受け取る人が出ても不思議じゃないです。

三つ目は、この件をいきなり「世に問うてみる!」と言い出した所。なぜ、問う相手がいきなり「世」になるのか。まずは身近な相手、例えば「車椅子仲間に問うてみる!」じゃないのか。そこまでスケールを拡大した発言になる理由が、全くわかりません。まぁ、まさか「車椅子仲間」が一人もいないさみしい御仁、だったとは想定外でしたが。

前々回の記事で書いた「多少のツッコミどころ」とは、こんな所です。

乙武サンについて2

冷静になって考えてみれば、乙武さんが不倫をしたこと自体は別に不思議ではありません。顔面偏差値は中の上、頭と口が回るしお金持ち、年齢も(当時は)30代、そして外聞の良い有名人、と来れば異性を惹きつけるのには十分です。そして、かばう人が2〜3人は出るだろうな、とは予想していました。が、フタを開けて驚き。

それ以上の人間が乙武さんを庇ったから。

何であんなに庇うんでしょうか?(弱みでも握られているのか?)友人連中は「あいつは特別だから、目をつぶろうよ」なんて言ってたらしいですが、それはひょっとして「差別」じゃないのか。それにしたって、わざわざ箝口令を敷かなくても、口止め料を払わなくても周囲が自発的に口を噤んでくれる、障害者とは実にお得な立場だな、と私、つい皮肉な眼差しを向けてしまいました。ベッキーに対する態度との違いはなんなのか。(私はベッキーに対して、特に関心はありません)

芸能記者のコメントで「乙武さんの女好きは、当たり前すぎて記事にならないと思っていた」なんてのもありましたが、どう見ても言い訳。むしろ今まで全く報道がなかったからこそ、クリーンなイメージが膨れ上がり、その反動でここまで大炎上したとも言えます。「乙武さんが、また美女とお泊まり!」なんて記事がしょっちゅう出てれば、「またあの人か〜」で済んだんですから。メディアの「忖度」が返って裏目に出たってことですね。過度の忖度は人をダメにする、という教訓がここに。

で、ふと思ったのは

乙武さんが女だったら、みんなここまで庇ったか?

ということ。(女だったらこんな性格になってなかった可能性はありますが)学生時代から複数のボーイフレンドを侍らせ、飲み会では下ネタ三昧。結婚後もホストクラブで豪遊を続け、大人しいのは妊娠中だけ。夫に生理用ナプキンまで換えさせておきながら、夫と子供を放置して若いツバメ(←死語)と海外旅行。こんな「女」だったら世間は庇ったか?「障害女性の性欲処理は大変なんです」と、理解を示したか、と考えるとそれは多分「否」でしょう。彼が不倫し放題の上、変に庇ってもらえたのは彼が「障害者」である以上に「男」だったから、とも言えます。

乙武さんがいつも若くてキレイな(華奢な)女性と一緒だったことに、誰も突っ込まなかった事も不思議です。親にこの疑問をぶつけた所、「介護だと思われてたんじゃない?」という回答が返ってきましたが、介護なら別に若くなくても美人でなくてもいいですよね。(そして体格はガッシリ系の方がいい)そもそも最近は障害者の羞恥心を考えて、介護は基本同性でという方針になっていたはずです。庇っていた有名人にもそんな事を言っていた人がいましたが、それは同性介護を推進してきた人たちの努力を無視するものなのでは?

蛇足:家人は、乙武さんにまーったく関心がありませんでした。話を振ったところ、「えっ、誰それ?あっ、わかった。口で筆を咥えて、みつおっぽい詩を書く人でしょ?」と返されました orz。まさかの星野富弘氏との混同。どうやら、「ハンデがあっても頑張っていいことしてる人」で終了していたらしいです。何かと話題になる人に対して、ここまで無関心を貫けるのもある意味すごいな、と変に感心してしまいました。

乙武サンについて1 不倫スキャンダル編

2016年3月下旬に発覚した、日本一有名な障害者・乙武洋匡氏の不倫スキャンダル、実は私あまり驚きませんでした。強いていうなら「あの乙武さんが!?」と驚く気持ちが2割、「あぁ、やっぱり」と納得する気持ちが8割といった感じ。「あの乙武さんが!?」というのも「あの人格者の乙武さんが!?」という意味ではなく、「移動が大変な車椅子で、よく不倫できたな!あんな目立つナリして、よくバレなかったな!」といった面が主でした。と、同時にこの人は「’生殖用の女’と’快楽用の女’を使い分ける旧態依然としたイヤ〜なタイプの男」だったのかと幻滅しました。

なぜ、「あぁ、やっぱり」という感想が出てきたのか。実は乙武さんの言動には2013年の夏辺りからずーっと違和感を持っていました。というと、イタリアンレストランの件…を連想する人が大半だと思いますが、そっちではないのです。この件については、多少ツッコミ処はあったもののそこまで関心がなかったので。双方「俺は悪くない!」という主張に終始するのは、目に見えていましたし、その場にいない人間が憶測で何か言ってもしょうがない、と冷めた目で見ていました。(別記事で書きます)

では、何がきっかけだったのか。それはネット上で見つけた一枚の写真。うろ覚えですが、確か

海パンいっちょにグラサン姿の乙武サンが日向ぼっこしている写真

で、タイトルが

「カタワの甲羅干し」

でした。もうね、ドン引き。一瞬成り済ましかと思ったレベル。「この人、これがウケるとか思ってんの!?頭、平気?」って。この写真を見て、後腐れなくカラカラ笑える人間は多分いないのに、一体何を考えているのかと呆れました。それに、どこか自分に酔ってるのがミエミエで、気持ち悪かった。「こんなこともできちゃう俺っちって、かっちょいいベー!!」ってどこがなんだか。この写真に意味があるとすれば「乙武さんもフツーの人間」だと気づかせてくれた、くらいです。ええ、フツーでした。フツーにむさい小男でしたよ、乙武さんは。しかし、フツーの人間の胴体に切り株の様な手足が付いている、というのはかなり強烈なインパクトでした。(これが彼の’武器’なのかもしれない)

で、立ち止まって考えてみたら、色々気が付いた訳です。

乙武さんは障害者の代表のように振舞っているけれど、いつも健常者とばかりつるんでいる

と。乙武さんは、あちこちで対談したり共著を出したりしているけれど、相手はことごとく健常者だったんですよね。考えてみれば変です。障害を前面に出して5年6年活動していれば、パラリンピック選手との対談くらい持ち込まれてもおかしくないのに、なぜ?なぜダウン症の書道家や、車椅子の小児科医と対談しないのか。もちろん先方にも選ぶ権利はありますし、そもそも乙武さんは「自分は障害者の代表」なんて一言も言っていないのです。しかし、ここまで他の障害者との接点がないのが謎でした。

ちなみに不倫発覚前、私が持っていた乙武さんの基本的印象は「可もなく不可もなし」。当然彼を人格者だと思ったことはありません。「五体不満足の作者」で「たまにブログが炎上する人」、というざっくりしたものでした。

本来なら不倫発覚から4周年になる3月に書くつもりだったのですが、多分忙しくて無理そうなので今書きました。

空飛ぶ顔だけの〇〇!?

天使にも階級がある、ということはいつのまにか知っていました。多分30歳くらいまでには。ジャンル問わず本を乱読してきた成果でしょうか。何でもぜんぶで3階級9つの階級があるそうで。「天使」ガブリエルが下から2番目で、実はそんなに偉くない、というのは意外でしたね。偉い天使は、人間如きには関わらないらしいです。

で、「はじめてのルーブル 中野京子 集英社(現在は文庫)」を読んでいて衝撃だったのが、一番偉〜い第一階級の天使たちの姿。なんと

頭部に直接翼が生えている

というものらしい。つまり頭だけがパタパタ飛び回っている、という姿なのです。一瞬置いて出た感想は、

それって飛頭蛮!?

でした。(飛頭蛮とは、夜になると頭部だけが胴体から離れて飛び回る妖怪。中国由来。詳しくはこちらをどうぞ)著者は「えらく見えなくて困る」と書いてましたが、私の感想は「えらい、えらくない」以前の「妖怪みたい」というものでした。だって、頭だけが飛び回るんですよ!一瞬ギョッとしませんか?まぁ、一異教徒の取るに足らない感想に過ぎませんが。

神聖なのか、不気味なのか。「普通でないもの」をどう位置付けるかは、+か−かに分かれるのが普通とは言え、ここまで両極端なのかと東西の感覚の違いに驚きます。スペインの画家・ムリーリョの描く顔だけ天使は、愛らしい方だと思いますが。

蛇足:飛頭蛮についてもっと情報が欲しい方は、マンガ「地獄先生ぬ〜ベ〜」をおすすめします。かなりインパクトがありますので、少々注意。