大阪2児餓死事件1

この事件が起きたのは2010年の夏のこと。誠に痛ましい事件でした(詳しく知りたい方はこちらのWikiの記事をどうぞ)。

この事件は、社会に多大な衝撃を与えました。そして「怒りとは手軽な娯楽である」といいますが、この事件に関する報道が、まさしくそれでして、メインは、母親に対する怒りと批判でした。行政や元夫、母親の父に対する批判はあったものの、完全に脇役。とにかく日本全国が怒り狂っていました。事件の動機の第一報が「子育てが面倒くさくなった」でしたしね。この事件、とにかく対比が強烈だったんですよ。真夏のゴミ部屋で餓死する幼児と、外でホストと遊びまくり、キラキラライフをSNSに投稿する風俗嬢の母親。当然(なのか?)、当時未婚子無しだった私も激怒していました。「何なんだ!この人は?」と。ですが同時に、単純に驚いてもいました。

「なんか、ものすごいジェットコースター人生だな」

「この人、私より若いのにライフイベント多すぎだろ」

って。この人の半生は、というと、部活孤児としてネグレクトされて育ち、10代の頃ぐれて、性被害に遭う。その後、父の知人の下で立ち直り、結婚し妻となり、出産して母となり幸せな家庭を築くも、不倫して離婚して子供二人を引き取ってシングルマザーになって、風俗堕ちしてネグレクトに走ったのち、殺人犯として逮捕。この時点でまだ23歳という若さ。もうほとんどケータイ小説ケータイ小説って?という方はWikiの記事をどうぞ)です。違いはタイムスパンくらい。書評家・豊崎由美の言葉を借りるなら、「なんという、コンデンスライフ!」といったところか。

事件から15年弱が経過し、報道もめっきり減りました。判決確定後の母親の動向については、支援者夫婦と養子縁組して苗字が変わった、くらいしか流れてきません。ジェットコースターな人生を送ってきたこの人にとっては、いい意味で変化のない日々なのかしれませんが。その影には二人の幼児の犠牲があったと考えると、実に複雑な気分になります。

当時と比べて、現在世の中一番変わったことは?というと、ホストクラブとホスト対する批判が堂々とメディアに載るようになったこと、でしょうか。ホストクラブに対する批判が表に出てきたのは2020年以降であり、この事件発生当時はそんなもの微塵もなかったのです。単に、ハマるヤツの問題だとされていました。それに、この件に関しては、そもそも母親は成人済み、ホストが母親をそそのかしてネグレクトさせていた訳ではないし(母親は、子供は預けているといっていた)、ホストクラブが違法営業していた訳でもなかったので、批判の仕様がなかったのかもしれませんが。

口がきけない子の話12  小5の12月の発見2

同時期に、もう一つ気づいたことがあります。それは、

なぜ、先生は私を褒めてくれないのか?

でした。

私が先生の頼みで、Mさんをグループに入れたり、二人組を組んだりするようになって半年経っても、先生は一度も私を褒めてくれなかったのです。

その間、Mさんとトラブルもケンカもなく、当然私がMさんをいじめたこともありません。話し合いに全く参加せず、黙って固まったままのMさんに、少々イラつきながらも、漂う異臭に辟易し時々息を止めながらも、私は嫌味一つ言うことなく、彼女に優しく接していました。たまに不満そうな他のメンバーを抑えながらも、頑張ってグループ学習に取り組んでいました。

もし、先生が「あなたは優しい子ね」やら「いつもありがとうね」だか「富永さんのおかげで先生、とても助かるわ!」とでも言ってくれたら、私はとても嬉しかったでしょう。先生は、私をちゃんと見ててくれてる!私は人の役に立っているんだ!自分のやったことが正当に評価された!という実感が持てて。

しかし、先生は褒めてくれませんでした。「褒める」という行為は、所要時間10秒未満、かつ特別な準備もいりません。何より経費は¥0です。なのに、なぜ?

いや、「褒める」がマイナスに働く場合がある、ということは知っています(例:断れない性格の人が誉め殺しにされて、退路を絶たれる、等)。が、当時の私の置かれた状況は、明らかにそうではなかった。

「お前は褒められなきゃ何もしないのか?」と言われたらそれまでなんですが、全く評価されないのも、嫌なものでした。別に私は、好きでMさんとつるんでいた訳ではないし、彼女と一緒にいてもいいことは何もないのです。なのに、私はなぜこの子と一緒にいるんだろう?毎日がとても虚しかったです。

しかし、自分から先生に「なんで、褒めてくれないんですか?」と質問する気にはなれませんでした。人からの見返りとプラスの評価を露骨に期待するのは、どこかカッコ悪くて浅ましい気がしたのです。何より、そんなこと自分から言うもんじゃないと思っていました。

結局、私は考え方を変えて無理矢理自分を納得させ、上記の不満を封印しました。「半年」じゃなくて「まだ半年」だと。「先生はまだ様子見をしているんだろう。3学期が終わるまで、このことは考えないでおこう」と。要は先送りしたのです。「その頃には事態は好転しているかもしれない。先生だって大人なんだ。色々考えてるさ」とも考えました。次いで、「私はいいことをしてるんだ絶対誰かが見ていてくれる!そのうち正当に評価されるに決まってる!」と、これまた無理矢理自分を鼓舞しました。

さて、結果は、というと

大ハズレ

でした

なぜ、先生は私を褒めてくれないのか?という疑問と不満を混ぜた気持ちは、約1年後、さらに巨大化・深刻化して私を襲うことになるのです。

しかし、私はなぜこんなにも「先生から褒められたい!」と、思っていたのか?改めて考えてみると、どうも元凶はMさんとその親にあった気がします。この人たちは、盛大に私に世話になっておきながら、「ありがとう」の一言すらありませんでした。その分、Mさんのお守りを私に頼んだ、先生に対する期待値が上がってしまったのかもしれません。「世話になっている当人(とその親)がノーリアクションなんだから、そうなるように仕向けた人が責任をとって褒めてくれ(血涙)!」と。

 

 

 

 

 

口がきけない子の話11  小5の12月の発見1

それは小5の12月、私が先生の要請でMさんとグループを組むようになって半年後のこと。その日は何かの授業で、二人組を組みました。私は当然?、Mさんと。そして恙無く授業は進み、学校終了後、私はルンルン気分で下校しました。「今日も、Mさんと特にトラブルを起こすことなく、和やかにグループ学習できたなぁ♪、自分、よくできたなぁ」って。

でもその瞬間、唐突に気づいてしまったのです。

私、全然楽しくない!!

まるで、雷に打たれたような衝撃でしたよ。そうです、Mさんとのグループ学習自体は、特にケンカも何もなく和やかに進行していたのです。しかし、二人組を組んでいた当の私は、まーったく楽しくなかった。

理由は多分、Mさんとのやりとり(注:会話ではない)にあります。私とMさんとのやりとりを、記憶の限り忠実に文字起こししてみると、以下のような感じ。↓

私:Mさん、これやってみようか?…よくできたねー!んじゃ、こっちもやってみようか?…上手いねー!次はこうしてみる?

Mさん:………(←黙りこくってうなづいているだけ)

…明らかに対等な友人同士のやりとりじゃないんですよね、私が一方的に話しているだけで。Mさんは、嫌がっているような感じはしなかったのですが、ひたすら黙って固まっている。例えるなら、「5歳児と、そのご機嫌取りをしている幼稚園の先生という感じでした。私は、「友人同士の和気藹々とした会話」・「意気投合した連続したやりとり」・「建設的な議論」がしたかったのですが、Mさんと一緒では、それは無理だったのです。

「Mさんと組んでも楽しくない」ということに気づいてからは、彼女に積極的に話しかけるのをやめました。それまでは前述したように、Mさんに楽しくグループ学習してほしくて、たくさん話しかけたりなんだりしてたんですがね。もう必要最低限のことしか話さなくなりました。まぁ、「会話」が「業務連絡になったといいますか。だってねぇ、どんなに気を使っても、Mさんからは、たまーにうなづきが返って来るだけで、基本無表情・無反応なんですもの。とにかく虚しくてたまらなかった。私のやってることって意味あるの?って。

でも、こんなんでも特に不都合なくグループ学習は成立するんですよ。四人組はもちろんのこと、二人組でも。Mさんが不満そうな振る舞いをする訳でなし、先生が何かいってくる訳でなし。しかし、グループ学習といっても元々、私とMさんの関係は、

  • 私→リーダーシップをとって、9割方作業して完成させる
  • Mさん→ほとんど何もしない。ただ固まっているだけ

というものでした。…ってこれ、グループ学習なのか?

 

 

「岩月謙司」を振り返る10 本を買わなかった訳6

前回から大分間があいてしまいましたが、「岩月の本を買わなかった訳」、今回が最終回の11.です。本当は、前回と一緒の記事にする予定だったのですが、前回が予想より長くなってしまったので分割しました。

理由11   元々の研究対象と現在の研究対象が違いすぎて論理に説得力がない

岩月は、よく「私は生物学者ですから」という前置きで話を進めます。確かに岩月の専門は、動物生理学・動物行動学・人間行動学(日本の論点・2004より)、とされています。これらの学問は、行動の根拠を生得的な特徴だけに求めるのではなく、後天的に培われた文化社会的な要素もある程度視野に入れているらしいです。そして岩月の一連の著作も、概ねそうした観点に基づいて書かれているそうな。(諸君! 2003年・11月号 田口亜紗の論考より引用)

この3つの分野のうち、前の二つの関連性はわかります。しかし、最後の「人間行動学」は、どうか?要は「私は生物学者だ!動物行動学者だ!人間だって動物だ!だから人間の行動だって分析できる!」という理論はどこまで正しいのか、疑問に思いませんか?何か、3段論法の罠のようなものを感じて、信じていいのか一瞬躊躇ってしまうのは私だけなのか。ここで、信頼性を判定するポイントは、「もともとの研究対象と人間との生物学的な距離・類似点・相違点」ではないのかと考えられます。

例えば、人間とボノボを比較した研究だったら信頼性は高いでしょう。人間とボノボは近縁種で、どちらも群れで生活しています。人間の近縁種でなくとも、細胞レベルの話であれば共通点は多いでしょう。大腸菌とカニと人間で、リボゾームの働きに違いがあるとは思えません。

で、岩月の研究対象は何かというとゾウリムシオオマリコケムシなんですよね。さらに細かくいうと「ゾウリムシとクロレラの共生について」。この二つの生き物の特徴を大まかにまとめてみると、

  • ゾウリムシ  単細胞生物で、無性生殖と有性生殖二つの方法で増える。単独行動し、他個体の影響を受けるのは有性生殖時のみ。
  • オオマリコケムシ 外肛動物で、やはり有性生殖と無性生殖の両方を行う。群体を作るがそれは無性生殖で。要は群体内の個体は全てクローン。

となります。どちらも単純な構造の、脳を持たない無脊椎動物で、他個体との協力やら敵対やらもなく、生殖行動もやはり単純。つまり、ほとんど反射や本能で生きていて、文化社会的な要素、「家族」・「社会」という概念がない生物なのです(当然「父親」という概念はない)。対して人間は、巨大な脳を持ち、群れで生活し、群れのメンバーやら宗教やらメディアの影響を大きく受ける高等動物です。要は、ゾウリムシと人間の行動に類似点はほとんどないのです。性行動については言わずもがな。「私は、ゾウリムシの行動を研究していた動物行動学者だ!人間の性行動だって分析できる!」という岩月の主張は、あまりに飛躍しすぎていて説得力がない、ということがお分かりいただけたでしょうか。

ゾウリムシの専門家が恋愛カウンセリングをしている」ということを、世間はどう評価してきたのか?と、記憶を掘り起こしてみましたが、特にどうともしてなかった気がします(疑問を表明していたメディア関係者は多分ゼロ)。別に岩月は、専門がゾウリムシであることを隠してはいなかったのですが、毎度毎度説明していたわけでもありませんでした(日本の論点・2004や、論座・2003.4月号でも書かれていない)。しかし、それにしても「何かヘンだ」と思った人は本当にいなかったのか、実に不思議です。もしかしたらいたのかもしれませんが、「ベストセラー連発作家」の前に、沈黙していた可能性が高そうです(又は上司に握りつぶされたか)。

じゃあ、お前はどう考えていたのか?と言われそうですが、私は、岩月の専門がゾウリムシであることは知っていました。が、あまり深く考えていませんでした。といいますか、「大学教授」という肩書きの眩しさの前に、「ゾウリムシ」が霞んでしまったような感じでした。ときおり「このバックボーンで本当にわかるのか?」と疑問に思うこともあったのですが、世間がほとんど無反応なので、気にする自分が神経質なのだ思っていました。

…この記事を書くために調べ直していて気づいたのですが、「生物学者」・岩月が教鞭をとっていたのは、「教育学部」なんですよね。別に、教育者でなければ教育学部で教鞭をとってはいけない、訳ではないのですが、なんか全てがちぐはぐな気がしませんか?「ゾウリムシが専門の生物学者が、教育学部で人間の性行動を研究し、恋愛や親子関係のカウンセリングをしている」って、今から考えると怪しさ爆発ですな。

 

 

 

 

「岩月謙司」を振り返る9 本を買わなかった訳5

理由10  「父と娘」の関係性にやたら執着している

岩月は、その著作全般にわたって「父と娘」の関係性に、異様に執着しています。もちろん、「母と息子」についても書いてますが(なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか  講談社プラスアルファ新書)、総合的にみて圧倒的に「父と娘」についての言及が多いのです。その執着が変な形で表れているのが、①父と娘の入浴、そして②父と娘のセックス、についての記述です。もー、気色悪い話が山盛りでした。

①父と娘の入浴

この記述は岩月の著作にしょっちゅう出てきます。もはや岩月理論の根幹とも言えるレベルです。これは「父が娘に対して性を超えた聖なる愛で接しているか見分ける方法」で、「◯歳まで父と一緒に入浴できたら正しい父性愛をもらった証拠」らしいのですが、不思議なことに、その「◯歳まで」の部分が著作によってバラバラなのです。ある本では「生理が始まるまで」なのに、別の本では「20歳になってもおかしくない」だったり。日本人女性の平均初潮年齢は、12歳前半(日本思春期学会)ということからすると、その差は8年。なぜこんなに開きがあるのか。この時点で何か怪しい。ちなみに、日本風呂文化研究会の調査(2018)によると、父と娘の入浴率は9歳の時点で50%です。そして欧米では、父と娘の入浴は性虐待として禁止されています。岩月理論が正しい、とすると「日本人女性の半分以上は正しい父性愛をもらっていない」、「欧米人女性は全員正しい父性愛をもらっていない」ということになってしまいます。これって、どうみても変ですよね?

また、岩月理論では「娘は父への信頼の証として、自分の体を父に見てもらいたくなる」、「恥ずかしさより、父親への信頼を優先させようとする」らしいのですが、

そんな訳あるかー!!フツーに恥ずかしいわー!わざわざ見せるか!ボケ!

としかいいようがない。えぇ、私は全く思わなかったのです、「身も心も見てもらいたい」なんて。いやー、この部分を初めて読んだ時は、ギョッとしましたよ、もう鳥肌立ちまくり。そしてその後、なぜか軽く落ち込んでしまいました。「私は、父性愛を十分にもらっていなかったのだろうか」と(もしかしたら、これも岩月の仕掛けたワナなのかもしれませんが)。この辺りは考えると泥沼にはまってしまうので、心を麻痺させて流し読みしていました。しかし、現在の性教育では「水着で隠れる部分(プライベートパーツ)は、親であっても侵入不可(見せたりなんだりしない)」とされていて、これは、岩月理論を真っ向から否定しています。性教育アドバイザーの方が、岩月理論をどうジャッジするのか、大変興味があります。

ちなみに、対談相手の漫画家・くらたまこと倉田真由美氏は、「中学生で父の入浴していると不審がられる」と、岩月理論に疑念を呈しています(珍しく)。そして娘の母になった現在、この理論に対して何か思うことはないのかと聞いてみたい。

それと岩月は、『娘が自分を守ってくれる「騎士」だとお父さんを認識すると、体から信頼のサイン、 つまり「娘のサイン」を出す』、『これこそがお父さんから「オス」を消滅させるサイン』と述べていますが、「娘のサイン」って具体的になんなんでしょう?フェロモン?視線?それとも言動?著書には、全く記述がありませんでした。「お父さん認定証」とは書かれてるものの具体的にはサッパリ。もっとまともに説明してくださいよ、一応学者の端くれなんだから。しかしこの「娘のサイン」、かなり危険なロジックだな、と今気づきました。性虐待の被害者に対して、悪意を持った人間が「お前が娘のサインを出さないからだ」等、難癖をつけることも可能なんですから。

蛇足ですが、岩月理論では「高校生になった息子が母と一緒に入浴するのは、単なるマザコン」だそうです。なんというダブスタ。そして「父性愛をタップリ」という表現もまた気持ち悪かったですねぇ。なんでわざわざ「タップリ」と、そこだけカタカナで書くんだよ…

②父と娘のセックス

この記述もやたらに多かったと記憶しています。とにかく猛烈に気持ち悪くて、おぞましくて、うんざり。もう、本を放り出して、その場から遁走したくなりました。でも、「ひょっとしたら、もしかしたら本当なのかもしれない」という思いが拭いきれず、ずるずると読み続けてしまったのです。一見矛盾なく、つるつると文章が続くので歯止めが効かないというか。ちなみに「母と息子のセックス」については一切合切記述はないです。これに関しては、気持ち悪すぎてそれ以外の感覚がまともに思い出せず、書けることがほとんどありません。すみません。

以上のような岩月の「父と娘」の関係への異常な執着からして、私は、きっとこの人にも娘がいて、それなりに問題意識や関心があるからなのかな〜、と思っていましたら、なんとこの人には娘がいない!と聞いてびっくり(息子が二人いるらしい)。一気に違和感が膨れ上がりました。なんでここまで「父と娘」にここまでフォーカスしているのか。別に、身近なところに関係者がいなければ、研究してはいけない訳ではないのですが、着眼点がおかしいんですよ。「娘の裸を見たら、父は勃起するか?」なんて発想、普通は出てきません。当然自分の娘にインタビューした訳でもなし。参考文献も一切なし。まともな調査結果もなし。岩月は女子学生相手にアンケートをとったらしいのですが、詳細な分析結果もなかった気がします。そもそも、女子学生は岩月から評価される立場ですから、岩月の顔色を窺ってその主張に合致する回答を返してくる可能性が大であり、アンケートとしての精度はあまり高くないのではないでしょうか。しかし、ここまで無い無い尽くしの理論に対して、編集者も校正者も何も言わなかったのが不思議です。そして、それがベストセラーになってしまったことも。心理学会からは無視されていたらしいですが、学会はきちんと批判しておくべきだったでしょう。

 

 

 

「岩月謙司」を振り返る8 本を買わなかった訳4

理由8 相談者のほとんどが若い女性

この項目は「性別」と「年齢」に分けて考えます。

性別について

岩月の著作に登場する相談者は、ほとんどが女性です。男性の相談者はゼロではないらしいのですが、少なくとも私の記憶には残っていません。つまり無視できるほどの少数派。

岩月理論によると「女性は親からたくさんの愛を必要とするために、親の影響をうけやすい」→だから女性の相談者が多い!のような流れでもって、岩月は「相談者が女性ばかり」という不自然さをカバーしようとしてる印象を受けます。私はすっかりこのロジックを信じてしまい、2003年頃は全く疑問を感じていませんでした。でも本当にそうなんでしょうか?「女性は親からたくさんの愛を〜」って、なんだか後づけっぽくて胡散臭いんですよね、客観的データもありませんでしたし。それに昨今の毒親ブームや、「虐待の連鎖」のルポを見ていると「親からの愛情」の影響に男女差はない気がします。
仮に、五百歩譲って岩月理論が本当だとしても、この偏りは不自然です。

年齢について

相談者の年齢のボリュームゾーンは20〜30代でした(そして前項で指摘したように女性ばかり)。10代が少数なのは、自発的に「相談」にやってくることが年齢的に不可能なこと、親権者の同意がないと相談に乗れないことが主原因だろうと推測されます。では、40代が少数なのは?50代以上の相談者が皆無なのはなぜ?「幼児期の心の傷が様々な問題を引き起こす」なら、戦争孤児である60歳以上の相談者がいてもいいはずなんですけどねぇ。なんででしょう?

岩月は「四十バカはなおらない」という聞きなれない言葉を使ってまで、40代以上の相談にのらないことを表明しています。この「四十バカはなおらない」、読んだ当時から、「こんな表現あったっけ?」と引っかかっていました。手持ちの電子辞書(デジタル大辞林・明鏡国語辞典第二版)で検索しても出てこないところをみると、どうも岩月の造語のようです。そこまでして、高年齢者の相談に乗りたくないんかい…編集者も校正者も「この表現はなんですか?」等突っ込まなかったんでしょうか。

理由9 相談者が美人ばかり

そうなんです!とにかくほぼ全員の容姿が中の上以上。ブスは一人もいませんでした。これ、立ち読み当初から猛烈に疑問でした。単に美人は恋愛の機会が多いからか?ブスはだめ恋愛をしないのか?それとも、美人はだめ男に引っかかりやすいのか?いくら考えても、納得のいく理由が思いつきませんでした。今になって考えると、多分岩月が相談者を選んでいたと思われますが、さてどうやって?直接研究室にやってくる相談者の容姿はわかりますが、手紙を送ってくる相談者の容姿はわかりません(以前にも書きましたが、岩月が相談の手紙を全て送り返していたとは思えない)。返信に「顔写真を同封してください」とでも書いてたんでしょうか?それ以外に思いつきません。

そして不快だったのが、岩月がこの人達の容姿を値踏みしていること。「人形みたいにかわいい」やら、「女優の〇〇似」やら…一つ一つだとたいしたことないんですが、積み重なってくるとイラっとくるんですよね。「それ、相談内容と関係あるんかい」って。(決して、自分の容姿と比較して僻んでいるわけではありません)そもそもこの人、他人の顔にアレコレいえるほどのご面相でしたっけ?中でも一番嫌だったのが(どの本だったか忘れましたが)、「こんなかわいい娘をもったら実の娘でもオンナを感じてしまうかもしれないなぁ、とお父さんに同情しながら話を聞いた」とかいう文でした。とにかく猛烈に気持ち悪くて、気持ち悪くて、大根がすりおろせる程鳥肌がたちました。…あれ?後の事件のことを考えると、これはもしかして「自白」だったのか?

 

 

 

「岩月謙司」を振り返る7 本を買わなかった訳3

さて、今のところコンスタントに更新中の岩月シリーズ(←この命名でいいのか?)第7回・本を買わなかった訳第3回です。20年近く前の騒動を今更?と自分でも疑問に思いますが、自分の書きたい!に忠実にいこうと思います。

理由6 著者の言動が矛盾している

具体的にいうと、やってる事がどう見てもカウンセリング」なのに、「私はカウンセラーではない、だからカウンセリングはしない」と書いていることです(その他にも私は精神科医・臨床心理士ではないとも表記有り)。じゃ、相談者とのやり取りはなんなんだというと、「茶飲み話・井戸端会議」だというのです。この姿勢が、立ち読み当初から疑問でした。どうしてこんなに往生際が悪いのだろう、見え透いたウソをつくのだろうと(相談者と岩月とのやり取りを読み返してみると、カウンセリングにしか見えない)。当時の自分なりの予測は、多分「保険」なんだろう、でした。「カウンセリングを受けたけど、効果がない」と苦情がきても、「私はカウンセラーじゃない、だから効果がなくても苦情は受け付けない」と突っぱねるための。にしても、ここまでしつこく繰り返すのは気になりました。

それに、本のあとがきには「手紙に返事がかけない・手紙は送り返している」等書いてありますが、岩月は研究室を訪れた相談者にお引き取りを願ったりはしてないのです。そのまま「相談」にのっています。なんなんでしょう、この違いは。この描写から推測できるのは、手紙を送り返している云々はポーズで、本当は返信したり相談に乗ったりしているのでは?ということ。そんな誤解を与えかねない記述です。いや、それを狙ってわざとこんな表記にしていた可能性すらあります。

一連の岩月記事を書くための下調べとして、ネット検索をかけたところ、なんと「カウンセラーの岩月先生」と紹介しているブログを発見してしまいました。…違うよ、岩月はカウンセラーじゃないよ、本人がそう明言しているのにも関わらず、カウンセリングしまくってたインチキ野郎だよ…(書いていたのは、岩月ブームが記憶に残っていない20代前半の人のようでした)

理由7 性的虐待についての関わり方が変

岩月は、児童性的虐待についてやたらと詳しいのに、被害者支援や防止活動等に携わっていないんですよね。作中で「AV並みのことをされている子もいる」等書いているのに、被害者のために何か動いた形跡はナシ。(前項で指摘したように、本人自ら「カウンセリングはしない」と明言)「こんなに酷い事がおこなわれている! 」のならば、大々的に世間に告発し、警察・弁護士・児童相談所等と連携して、被害者を救うべく動く。それが社会正義というものではないですか。しかし、岩月はショッキングな内容を羅列し、読者に衝撃を与えるだけで終わっているのです。これは「買わなかった理由2.」の「問題点を指摘はするが解決策を明示しない姿勢」、まんまです。岩月の著作全体を貫くスタイルが、ここでも現れているということです。これが、実に不可解でした。おまけに露悪趣味。「俺は、こんな事も知っている(聞き出せた)んだぞ!」と、踏ん反り返っているっつーか。それに、このスタイルでは被害者(相談者)が置き去りです。苦しい記憶を吐き出した相談者の立場は?彼女たちは、読者に衝撃を与えるための小道具ですか?

そもそも、言葉の選択もおかしい。著作中に「児童性的虐待」という単語は、確か使われていなかった気がします。代わりに使われていたのが「父のセクハラ」・「(性的)いたずら」という言葉。…なんと言いますか、「児童性的虐待」に比べるとライトな表現が使われていました。(セクハラの実態がライトということではなく、単純に語感の問題です)これが当時からほんのり不快でした。岩月は、「女の味方」という風に振舞っているのに、なんでこんな被害矮小化とも取れる表現をするのだろうと。いや、実際は敵だった訳ですが。

「岩月謙司」を振り返る6 本を買わなかった訳2

さて、前回に引き続き岩月本を買わなかった訳・第2弾でございます。今回は理由4.と5.です。

理由4 時々、意味不明な文がある

岩月本に、これまた頻出する文章として「あなたもうれしい、私もうれしい」という文章があります。パッと見、問題ナシ。というより普通にいいことを、ほのぼのと表現した文に思えます。しかし、私はこの文の説明が全く理解できなかったのです。

相手になりふりかまわず自分の好きなことをすれば、相手に気を使う必要がなくなり、あなたもうれしい、私もうれしい、という状況が出現する」

ということらしいのですが、この説明が、何回読んでも意味不明。「相手になりふりかまわず自分の好きなことをすれば」と「相手に気を使う必要がなくなり」が、どう考えても繋がらないんですよね。私の理解力が足りないのか?と思いつつ、注意して何度も読んでみても、やっぱり繋がらない、わからない。より先鋭化した文として「究極の利己が、究極の利他になる」というのもありました(説明もほぼ同じ)。これも同じくわからない。

上記の二つの文の説明として、例示されていたのが、ピアニストの例え。「ピアニストはピアノを弾くのが好き→どんどんピアノを弾く→聴衆はいい気持ちになる→ピアニストは嬉しくなってもっとピアノを弾く」という流れのようです。この部分だけ読むと「確かにそうだ」と、一瞬納得できます。が、それ以外にどんな状況で「あなたもうれしい、私もうれしい」が成立するのか?と考えると、全く頭に浮かばない。例えば、昨今話題の撮り鉄の皆様。彼らが「相手になりふりかまわず自分の好きなこと(いい写真を撮ること)」をした結果、どうなったか?というと、周辺住民とのトラブルが発生したり、鉄道会社が損害を受けたりした訳で。「相手に気を使う必要が〜」以下の状況は全く成立しません。あなたもうれしい、私もうれしい」が成立するのは、相当限られた状況だけです。「究極の利己が、究極の利他になる」に至っては、どうみても無理でしょう。

にも関わらず、上記の2つの文はしょっちゅう出てきます。しかも、さも成立して当たり前!の様な感じで。まるっきり意味不明なんですけど。なんだか、わかったようなわからんような、意味不明な理屈を丸飲みさせられているような不快感・消化不良感が酷く、それが嫌で、岩月本とは距離を置くに至りました。

理由5 「女は〜」という文章が時々不快

岩月本には「女(性)は〜」という文章も、やたらとたくさん出てきます。単純に、「だから女はダメなんだ」というニュアンスで使われてはいないのですが、何故だかこれらの文章群は、時々不快なのです(少なくとも私にとっては)。いくつか取り上げてみますと、

  1. 女性は(中略)男性が英雄体験を通して得る智恵を持つことはむずかしい
  2. 女性は決断することが苦手
  3. 女性のカンは、あくまでもその女性が興味を持っているものに限られる
  4. 女性は男性の応援団になるという方法で組織を維持してきた

などなど。私にとって一番不快だったのは、4.でした。「女は男を通してでなければ、間接的でなければ、社会参加できない半人前の未熟者」だとレッテルを貼られた気がしたのです。その昔、女性参政権が認められなかった理由の一つとして、「女の利権は男(父・夫)の利益に含まれるから女に参政権は無用」というものがあったらしいのですが、あたかもそれを正当化する様な不快な理屈。

1.2.は、事実を述べているように見えて女を見下していますし、そもそもデータも何も例示されていませんでした。3.からは、どうも女をリスペクトしている振りをしながら、ほんのり見下している感が透けて見えてきませんか?こんな文章は他にも複数ありまして、読んでいて地味に不快で読めなくなっていました。

 

 

「岩月謙司」を振り返る5 本を買わなかった訳1

一番最初の岩月関連記事に、「岩月の本にはまったが、一冊も買わなかった」と、書きました。その買わなかった理由、違和感・疑問・引っ掛かりを感じたポイントを、今回から順次書いていこうと思います。まず、ざっと書き出してみたら、以下になりました。

  1. とにかく文章が気持ち悪い
  2. 「問題点を指摘はするが解決策を明示しない姿勢」が嫌
  3. いくら読んでも救いがない
  4. 時々、意味不明な文がある
  5. 「女は〜」という文章が時々不快
  6. 著者の言動が矛盾している
  7. 性的虐待についての関わりが変
  8. 相談者のほとんどが若い女性
  9. 相談者が美人ばかり
  10. 「父と娘」の関係性にやたらと執着している
  11. 元々の研究対象と現在の研究対象が違いすぎて、説得力がない

意外に多いですね。この11個の理由のうち、2.と3.は以前のブログ記事で書いたので、残りの9個の理由について書いていきます。

理由1 とにかく文章が気持ち悪い

ええ、そうなんです。この人の文章は、とにかく、とにかく気持ち悪いんです(絶叫)!!っけからフィーリング全開で恐縮ですが、それ以外に適切な表現が見当たらないのです。どのくらい気持ち悪いかというと、立ち読みしていてゾゾっと鳥肌が立ったことが一度や二度ではない、くらい。自分の身体反応にビビりつつ思ったのは、「何コレ?なんでこんなに気持ち悪いの?」という疑問。そして「こんな本、部屋に置きたくない」と即座に決断。なんだか部屋の空気が汚染されそう、というか生臭い何かが、じっとりと染み出ていくような感じがしたんですよね。もちろん「印税払いたくない」とも思ったのですが、「気持ち悪い」の理由の方が5倍くらい強かったです。実はこれが私が「岩月の本を買わなかった最大の理由」だったりします。

しかし、この人の文章には「気持ちいい」という単語が頻出するのに、当の文章はとにかく気持ち悪い。例えば、「女性は、体を使った気持ちいいことが好きです」みたいな。なぜかこの文からは、トレッキングやフラメンコといった「健全」なことは想像しづらい。R18な単語は全く出てこないのに、なぜか淫靡な気配がするんですよ。一体これはなぜなのか。一つヒントになるのは、「悦び」「一体化」という単語が、「気持ちいい」とセットで、そして同じくらい使われていること。さらに、これら以外の表現はほとんど出てこないということ。いくらでも類似表現はあるのに(心地よい・気分爽快・喜び・歓び・慶びetc)、使われていないのです。

この手の文章が積み重なった結果、本全体が気持ち悪くなってしまったのでしょう。なんというか、性行為をけしかけられているような気がするんですよね。いや、そもそも岩月の著作全体からはどうも「セックス至上主義」のような空気が漂っています。まるで、「いいセックスは全てを解決する」かのような(ダイエット成功! という話はあった)。そりゃなんであれ、悪いよか良い方がいいだろう、と思うのですが、なんでここまで人様の性生活に首を突っ込みたがるのか。その時点でキモい。そして最初に紹介した「私を信じなくても良いが決して幸せになれない」という言葉。「心に傷を負った女性は、恋人選びに失敗してしまう」という理論。おまけに著書には「精神的指導者は、すぐれていればいるほど理知的な顔はしていないものです。どこにでもいるような人の良さそうなオジサンという感じです。」なんて書いてあるんですが、多分これは岩月本人のこと。これらから導き出されるのは、

「岩月の理想とするセックスをしなければ幸せになれない。そしてその相手には、岩月がふさわしい」

という結論です。要は、岩月の主張は「ワイと理想の一発をヤったらALL解決やで!」(←鼻息荒く迫ってくる)なんですよ。これを「親切さ」で隠しつつ、「相談」に乗り、あわよくば! を狙っているのを、私は無意識に感じ取った。だから「気持ち悪い!」になったのでしょう。

しっかし、よくもここまで気持ち悪い文章が書けるもんだなぁ、と半ば呆れます。もはや才能では?(注・ほめてない)そしてワイと〜」の理屈、なんかに似てるな〜と思ったら、逮捕二度目の一夫多妻男の理屈とほぼ一緒でした。そうか、この2人は同類だったか…

「岩月謙司」を振り返る4

さて、そんな状況で私は、岩月逮捕後の世間の反応を見守っていた訳です。が、それが予想と全然違ったのです。

私は当然、非難・批判の大合唱になる、と予想していました。せめて旧石器捏造くらいには。でもそうではなかった。もちろんTV・新聞・週刊誌でそれなりに取り上げられてはいるのですが、全体的に歯切れが悪いというかなんというか。

  • ベストセラー本の作者が、自らの理論を悪用してこんな卑劣な真似を‼︎
  • そもそもこの理論はまともなのか?
  • 出版社は何を考えてこの本を企画した?
  • 大学の監督責任は?
  • 共著者の今の心境は?

…と連日連夜の大騒ぎ、とはならなかったのですね。性犯罪なので被害者のことを考慮して二の足を踏んだ、とも取れますが、客観的に見てかなり変でした。真面目な検証番組や検証記事も、TVや新聞では目にしたことはありません。つまり、鋭く切り込む大手メディアがなかった。

一番意外、かつ不満だったのが、上野千鶴子や田嶋陽子といったフェミニストたちが、何の反応もしていなかったこと。フェミニストたちにしてみれば「女は〜というものだ」という決め付けが多発する本なんぞ、天敵同然なはずなのに何故でしょう?

バカバカしくて相手にしていられないのか?図星すぎて反論できないのか?

どっち?と、自分なりに仮説を立ててみたものの、あまりに正反対なので、どちらも信じる気になれないという始末。前者だとしたら、フェミニストとしての責任の放棄ともいえるし、後者だとしたらフェミニズムの敗北です。いずれにせよ、インチキ理論が世間に広められていくのを放置していた結果、被害者が出てしまった訳です。これでいいのか、フェミニズム?

また、精神科医や心理学者・カウンセラーの団体もロクに動いていませんでした。精神科医の香山リカは、逮捕前の岩月と一度対談してはいるのですけど、これは完全に期待はずれでした(のちに詳しく書きます)。特にカウンセラーなんて、業界全体の信頼に関わるのだから、危機感を持って行動すべきだったんじゃないですかね。「私はカウンセラーではない」と明言する人物が、堂々とカウンセリングをしている、という状況に違和感を持った人は1人もいなかったのか。「擬似科学ときちんと向き合うこと」で実害を減らす方向へシフトした科学界を、少しは見習ってほしかったです。

共著者で本の装丁も手がけた漫画家・倉田真由美も、逮捕直後から今に至るまでなんのコメントもしていません(私の知る限り)。逮捕直後は「推定無罪」だからコメント不可、なのはわかるのですが、有罪確定以降もダンマリを決め込むのはいかがなものか。「だめんず・うぉーかー」の作者が対談・共著したことで、岩月のインチキ理論の信憑性が強化され、本の売り上げが伸びる。それが「岩月信者」を増やし、ひいては被害者をも増やした可能性があるのですが。

真っ向から批判していたのは、私の知る限り、作家・ジャーナリストの日垣隆と、予備校講師の川原崎剛男くらいでした。しかも2人とも、批判は逮捕前からです。日垣氏は「非科学的な酷い本」とバッサリ(文藝春秋「いい加減にしろよ(笑)」)。川原崎氏も、「アダルトチルドレンの焼きなおし」・「トンデモ本の一種」とこれまたバッサリ(廣済堂出版 みっともない日本のバカたち)。「アダルトチルドレン〜」の批判はネット上でも存在し、中には「宗教っぽい」という批判もあったようですが、それが世間の主流にならなかったのは残念です。