「〇〇ちゃんを救う会」考①

さて今回は、「難病の〇〇ちゃんを救うためには、海外で臓器移植するしかありません。それには多額のお金が必要です。みなさん、募金をお願いします」という毎度お馴染み(?)運動についてです。思い起こせば、10歳未満の頃から時折ニュースで目にしていました。その時は、純粋に心を痛めてました。そして当時は国内での子供の臓器移植は、大変困難だったと記憶しています。

「自分と同じ位(またはもっと小さい)の子が重い病気で苦しんでいる。ひょっとしたら死んじゃうかもしれない。お金が無いせいで助からないなんて可哀想。なんとかしてあげたい」

少し焦燥感も混じっていたように思います。しかし10歳児の行動範囲は狭いため、実際募金をしたことはない訳で。当然、募金後までのことまでは考えてませんでした。

そして月日は流れ、20歳を超えた位からほとんど関心が無くなりました。理由は複数ありますが、最大のものは「自分が子供じゃなくなったから」。自分が子供だった頃は、まるで自分事のように切羽詰まった深刻なものとして受け止めていました。しかし一旦成人すると、そこまでのものじゃない、と気付く訳です。あの子はあの子、私は私、と。喉元過ぎればなんとやら、じゃないですが。そもそも身内でも医者でもない私が、そこまで気に病んでもしょうがないのです。

次点の理由は「キリがないから」。難病児が次から次へと現れることに、ウンザリしてきたのです。Aちゃんの移植が成功した!よかったねと思ったら、Bくんが現れ、Cちゃんが亡くなった!と思ったら、Dくんが現れる。という具合に。ほとんどドラゴンボールです。「難病」って、そんなに多いの?滅多にないからこそ「難病」なんじゃないの?単純に確率の問題で、日本の人口が多いから難病患者の数も増える、とは言え多すぎじゃないかと。本当に移植が必要なのか?一度気になったら考えが止まず、「距離をおきたい、関わりたくない」という結論が出てしまいました。(難病医療法でも定義の一つが、’希少’な疾病)

その次点の理由は、募金団体の問題点を知った事(ネットに繋ぐようになって判明)。収支が不透明であったり、子供が途中で死亡した場合でも余剩金を系列の別団体に移行しない等。人様の善意を元に集めた、多額の金銭を管理するにしては脇が甘いのでは、と成人したての小娘でも違和感を覚える内容でした。現在は改善されているようですが、昔は「善意の団体」であることに甘えた運営をしていたようです。

さらなる理由は、難病児の住所。みんな大都市圏に住んでいるのです。確かに大都市の方に名医が、大学病院が集中している、大都市は交通の便がいい、そもそも都市は人口が多い、のは確かですが。本当にそれだけか?と穿った見方をしてしまうのです。田舎の、地方の人間関係が嫌だったから、都市に出てきた、という理由はないんでしょうか?

実は10年ほど前、地方在住の親戚(還暦過ぎ)が簡単な手術をしたのです。が、我が家の親戚にも関わらず、連絡が来たのは手術後かなり経ってから。他の親戚からの電話で判明しました。なぜ、隠していたのか?というと、近所にばれると「あそこの家は、血がうんたら、スジがうんたら」なんて噂されるから、だそうで。還暦過ぎての簡単な手術ですらそんな噂が立つんだから、生まれつきの難病児なんて何言われるか、わかったもんじゃありません。その辺りの理由もあるんじゃないでしょうか。 

「労働力不足」

「少子化による労働力不足」が騒がれるようになって、早何年でしょうか。そしてこの「労働力不足」という言葉から、ある本のある一節を思い出しました。

(シンクタンクのみなさんが)将来減少すると心配している「労働力」とは、おもに単純労働の従事者を想定しているという点も気になります。将来社長が足りなくなるとか、学者や政治家が足りなくなるなんて話は一向に聞かれないのです。(中略)庶民を見下した心配なのです。

反社会学講座 パオロ・マッツァリーノ 2004年 イースト・プレス(現在はちくま文庫)

しかしこの本の出版から約15年後、2019年春の地方選挙では、過疎に悩む地方自治体のみならず、政令指定都市でも無投票当選の選挙区が出てしまいました。つまり「政治家が足りなくな」る事態になってしまったのです。原因の一つとして「人任せ」思考があるのではないか、という分析を日経新聞で見かけましたが、それだけではない気がします。もちろん、少子化=政治家不足という単純な図式でもない。

しかし、一方で「社長が足りない」という話は聞きません。要因の一つとして考えられるのは2006年の法改正。起業に対するハードルが下がったことがあげられます。

「政治家になる」というハードルを下げることが必要ではないでしょうか。その一つとして、「選挙供託金の廃止または大幅減額」という案を日経新聞で見かけました。これには賛成です。「年収300万円時代」が予言されて16年が経過、まとまったお金を没収覚悟でホイホイっと出せる人は少数派(というか奇人)です。諸外国では供託金がそもそもなかったり(アメリカ・フランス等)、あったとしてもせいぜい20万円くらい(カナダ・イギリス下院)の所が多いようです。昔「選挙用ハガキの横流し売買」で小金を稼いでいた輩がいたらしく、その点を心配する声もあるようです。が、今時そんなせせこましいことで小金を稼ぐ人はいるのでしょうか?みんな、手っ取り早く大金を稼げる振り込め詐欺や、ネトゲのアイテム売買に行ってしまうのでは?

というわけで、「選挙の供託金を下げる」というのはかなり有効ではないかというのが私の見解です。若手議員の皆さんには頑張ってもらいたいです。

家族はエロくてグロいもの

とは、古典エッセイスト・大塚ひかり氏の言葉です。具体的には、平安貴族が近親姦だらけだったこと、角田美代子事件は相手を「家族」にすることで民事不介入に持って行ってる、ということなど。詳しくはこちらのサイトでどうぞ。で、この対談中で、家族に対する意識が変わってきたため、近親婚に対して厳しい視線が向けられるようになったという指摘があります。

確かに変わりました。なにせ平安時代から1000年以上が経過。だから角田美代子事件のように「グロい」ことはまだあるけど、さすがに「エロい」ということは現代日本じゃないだろう、平安末期や終戦直後ならともかく、と思ってました。が、よくよく考えたらありましたよ。「エロい」と「グロい」双方を兼ね備えたものが。

それは医療分野、特に

移植・生殖医療といった「血の繋がり」がモノを言うジャンル

です。ちょっと以下に具体例を上げてみます。まず、移植医療編。

  1. 移植が必要な上の子を助けるために、体外受精&遺伝子検査で白血球の型の合う弟妹をわざわざ作る
  2. 本人は乗り気でないのに、親族から怒涛の勢いで迫られドナーにさせられる

続いて生殖医療編は

  1. 無精子症の夫の代わりに、義父(または義兄弟)の精子提供により妻が出産
  2. 妻の姉妹による卵子提供
  3. 母と娘の代理出産
  4. 姉妹間の代理出産
  5. 義理の姉妹間での代理出産
  6. 本人は乗り気でないのに、親族から怒涛の勢いで迫られ代理母にさせられる

のような具合。

こうしてリストにしてみると、生殖医療の方が多いですね。そして移植医療の方は「グロい」単体ですが、生殖医療の方は「エロい」と「グロい」双方を見事に兼ね備えています。なぜかと考えるに「生殖」となると、どうしても性交渉が頭をよぎるから、そして実際遺伝子を混ぜているから、ではないのか。要は科学的不倫のような気がしてしまうのです(←私だけか?)。特に生殖医療の1.2.4.5.のケース。舅の、義兄弟の、実の兄弟の子供を産む(または作る)。人工授精だから・体外受精だから・性交渉してないから・自分の遺伝子入ってないから・不倫じゃない!近親姦じゃない!と必死で言い訳しているように見えます。特に1.のケース。自然受精だったら、絶対やる人いないでしょう。もしかしたら「これは家族愛なんだ!」という反応が返ってくるかもしれませんが、そうだったらもっとエロく見えてしまうのでは。

上記の事柄は技術的に「やればできる」のですが、果たしてそれでいいのか?と、問いたくなる課題ばかり。もうこれは倫理学や宗教者の出番ではないのか。と思って、厚生労働省の厚生科学審議会(生殖補助医療部会)のサイトで会の委員について調べてみたんですが、宗教者が一人もいないように見えました。なぜ?政教分離だから?それとも考えが及ばなかっただけ?少なくとも、仏教各宗派と神道代表及びカトリック・プロテスタントの意見は聞いた方がいいのでは。

蛇足:「義父による精子提供」を積極的に手がけている長野の某医師。第一印象は「ヒルメスや奇子を大量生産してどうするんだ」でした。もうこの人は医師ではなく、ゴタルゼス二世に余計なことを吹き込んだ呪術師にしか見えない。

偉人伝の謎② 家庭教師編

偉人伝に関する違和感第二弾、今回は「住み込み家庭教師」の話です。

偉人伝には、よく女性の「住み込み家庭教師」が出てきます。ナイチンゲールも姉と共に、家庭教師の先生から「フランス語・歴史・数学・絵画鑑賞などを習った」らしいです。(学習漫画の脚注より)しかし、当時小学生の私はここで「ん?」となったわけです。前3者はわかる。現在でも学校で勉強する科目なので。で、最後の「絵画鑑賞」って、何?わざわざ教わらなきゃいけないの?そもそも具体的にどんなことを習うの?と、皆目見当もつきませんでしたね。

でもこの謎も、中野京子の本によって解けました。そもそも

「絵は眺めるものではなく、知識を持って読み解くもの」

だったので。先生はそのための知識を教えていた、という訳です。ナイチンゲールもアトリビュートやら何かの象徴やら、一生懸命覚えていたんだろうか。

そして、「住み込み家庭教師」という存在そのものについて。偉人伝を読み込んでいた当時は「さすがお金持ち。家庭教師も住み込みなんだ!」くらいしか考えていなかったんですが。(10歳児の単純な思考)この言葉自体に複雑な背景があった、ということが「怖い絵3」(現在は死と乙女篇)の「レッドグレイブ かわいそうな先生」の解説により判明。住み込み家庭教師、はガヴァネス(gaverness)と呼ばれ働く女性が軽蔑された当時、女学校の先生と共に、軽蔑されないギリギリの職業だったということ。「現役お嬢様を教える没落お嬢様」という精神的にきつい立場に置かれていたということ。かつての同じ階級の男たちは、ガヴァネスに「身を落とした」女性との結婚をためらったため、結婚すら難しかったということ。階級制度とは、かくも厳しいものであったかと改めて驚き。

女性は「働いている」ということ自体軽蔑された、ということの裏には労働に対するヨーロッパ人の意識が関係しているのかな、と思いました。なにせ「労働は、神の与えた罰」なのだから。

マリー・キュリーもガヴァネスをしていた時、そこの息子と恋仲になるも破局したという話がありました。「マリーさんは、いい人だけど、結婚はダメだ。あの人は家庭教師なんだから」というのが相手の父親の言い分。読んだ当時はわかりませんでしたが、そういう背景があったのかと30過ぎて納得しました。偉人伝は、大人になってからの方が、歴史の流れや社会的な背景がよくわかって、もっと楽しく読めるのではないか、と最近よく思います。

日本国憲法と強制不妊手術 日経新聞コラムより

今日は、少し前の話題です。以前、日経新聞・コラム春秋にて憲法学者の棟居快行氏の問いが紹介されていました。戦後の憲法学は何をしてきたのか、と。

ハンセン病元患者の隔離や障害者らへの強制不妊手術は、なぜ基本的人権の尊重を原理とする現行憲法の下でかくも長く続いたのか

2019年5月29日付、日経新聞・コラム春秋より

そして棟居氏はこう指摘します。

戦後の憲法学は主に、自立的な「強い個人」を人権保証の対象と考えてきたのではないか

同上

まぁ、そうかもしれません。が私見を言わせて貰えば、その割合はせいぜい2割くらいではないのか。では、残りの8割は何が原因か?って、それは間違いなく

憲法9条

にあるでしょう。戦後(特に20世紀中)の憲法論議といえば、その大半が「9条絡み」に終始していた感があります。9条以外では14条や25条が、尊属殺や生活保護を巡って裁判になることがありましたが、メジャーな物ではまぁそのくらい。戦後の憲法学・憲法学者はとにかく

9条!・9条!・9条が大事!9条さえ守れば全てはオッケー!!

な状況を作ってきたのです。11条や13条に目を向ける人は、ほとんどいなかった。その証拠に9条を守る会、はあっても13条を守る会は無く、9条デモは行われても13条デモなんて聞いたこともない。13条こそ憲法の急所、民主主義の精華であり、9条なんて枝葉末節に過ぎないのに。強制不妊の悲劇が放置されたのは、憲法学の怠慢の結果ではないのか?

不妊手術の被害者原告団は、国の責任を厳しく追及しています。それはもっともなのですが、憲法学者に対しては何のリアクションも起こしていません。原告本人の考えが及ばなくても、弁護団や支援者が何か発言してもいいはずですが。なぜですかね?

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法 第13条より

参考文献:日本国憲法の問題点 小室直樹 集英社インターナショナル

「怖い絵」のデ・ジャ・ヴュなエピソード②

前回に引き続き「怖い絵」シリーズの「どっかで見たことあるな〜」エピソード、第2弾です。それは「怖い絵」収録のアルテミジア・ジェンティレスキ、「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」。発表順としてはこちらの方が先ですが、思い出すのに時間がかかったので第2弾になります。「怖い絵」を読んだのが2014年、でエピソードを目にしたのが、やはり2009年頃のグリム童話系のレディコミ。作者は忘れてしまいましたが、艶っぽい絵柄の人でした。前回の話と同様、固有名詞も時代も覚えていませんが、こちらのストーリーはかなり詳細に覚えています。列挙すると以下の内容。

  • 主人公は、絵の勉強をしている女の子(父に、もうバラの花を描くのは飽きた、と言っている)
  • 若い男が「君が美しいから、愛しいから描くんだ」とか言ってる(←多分コイツがタッシ)
  • 裁判での指締めの拷問。父が「娘は画家なんです。手だけはどうか!」と泣いている
  • 同じく裁判での産婆による身体検査
  • ヒゲのお偉いさん(←多分トスカナ大公)がニヤニヤしながら絵を注文
  • 「強姦された女がどんな絵を描くのか、見せてやる!」と内心啖呵を切る主人公
  • 出来上がった絵を見たお偉いさん、「うおぉぉぉっ!」と悲鳴をあげ、顔面蒼白
  • そして「これは、女の描く絵ではない!」と捨て台詞を吐いて、部屋から出て行ってしまう
  • それを見送りながら、内心「やった!勝った!」と思う主人公

しかしこれだけ覚えていて、なぜ固有名詞も何も覚えていないのか、自分の記憶力がナゾです。

この絵は、「技法上の師にあたる」カラヴァッジョの同名作品が元になっているという説明に、どういうことかと気になってました。父のオラツィオは、カラヴァッジョの影響を受けた「カラヴァッジェスキ」というグループの一員だったから、その繋がりなんでしょうね。

しっかし父ちゃん、人を見る目がちょっと。タッシみたいなロクデナシを娘に近づけたらダメでしょう。タッシはそんなに猫かぶりがうまかったのか、男と女では態度が違うヤツだったのか。はたまた「まさか、あの人が!」のタイプだったのか。

「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」、カラヴァッジョ版とアルテミジア版、どちらの方が好きか、といえばやっばりアルテミジアの方ですね。リアリティと臨場感がすごい。力強い腕といい、流れる血といい。そもそもオノマトペからして違う気がします。カラヴァッジョの方は

「や〜だな〜。ギコギコギコ」

ですが、アルテミジアの方は

「ていや〜!ふんぬ〜!(×2)、ゴリゴリゴリッ!、ボキィィッ!

なんですよね。リアルに人が殺せそうなのは、どう見ても後者です。

それにしても「ジェンティレスキ」という苗字、一発で読めませんでした。当初「ジェテレスキ」と読んでしまい、検索が全然引っかからず。こうなったのは、私だけではない、と信じたいです。

参考画像

ホロフェルネスの首を斬るユーディト
カラヴァッジョ版
カラヴァッジョ版
ホロフェルネスの首を斬るユーディト
アルテミジア版
アルテミジア版

画像引用 日経おとなのOFF 2019年6月号   怖い絵 中野京子 角川文庫

「怖い絵」のデ・ジャ・ヴュなエピソード①

このブログでも度々取り上げている中野京子著「怖い絵」シリーズ。読んでいるうちに「どっかで見たことあるな〜」というエピソードに2つばかり遭遇しました。

一つ目は「怖い絵 3」(現在は死と乙女篇)に収録されている、シーレ『死と乙女』。画家シーレとその愛人ヴァリのエピソードです。「怖い絵3」を読んだのが2014年。以前このエピソードを見かけたのは2009年前後、本屋で立ち読みしたグリム童話系のレディコミで、でした。作者は確か一川未宇。固有名詞も時代もよく覚えていないのですが、大雑把な話はこんな感じでした。画家のモデルをしていた女性が(全裸でポーズをとっているシーンがあった)従軍看護婦になったのち、若くして病気で亡くなる、というもの。記憶を掘り起こしつつ「怖い絵 3」を読んでいて、「あぁ、あれはこういう話だったのか」と納得しました。

まぁ、シーレは画家として才能あった方らしいですが、男としては褒められた方じゃないよな、と思います。「女の使い分け」が露骨なんですよね。「身元のしっかりした貞淑な妻」と「下層階級出身の奔放な愛人」どっちも欲しい!って。現在でもそんな男性がいる以上、当時は当たり前だったのかもしれませんが。愛人が黙って付いて来てくれる、と信じていたのが実に都合良すぎ。

しかし、ヴァリがシーレからあっさり去ることができたのは、まだ幸いだったかもと考えてしまいます。多分それは当時20世紀初頭で、女性が働ける場所が増えて来たから。それ以前の社会だったら、また誰かの愛人になるか、それとも娼婦になるか。そんな未来しか見えないのですから、そうなるくらいならこのままでいよう、とシーレにしがみついていたかもしれません。

「エゴン・シーレ 一川未宇」で検索したら、見つかりました。多分この本に収録されている話です。

愛虐のカタルシス〜女たちの激情 一川未宇 著 株式会社 ぶんか社

名簿の問題 分けるか分けないか

私は小中高の12年間で、男女別名簿・男女混合名簿、どちらも経験しました。

小学校入学時は男女別でしたが、当時は特に意識していませんでした。出欠を取る時に男子が先か・女子が先か、で揉めた記憶も特にありません。担任が「今日は男の子からかな?女の子からかな?」と聞いてから、日直(男女各1名ずつ)がジャンケンしたり、「昨日は女子からだったから、今日は男子!」という意見が出たりして決める、というほのぼのしたやり取りを覚えています。

そしていつの間にか、小5位からは男女混合になっていました。「あれ?混ぜるの?」と思いましたが、別に気にした記憶もありません。「これからはこうなるんだ」と思っただけです。その辺りで、「NHK週刊こどもニュース」をまとめた「目からうろこ NHK週刊こどもニュース・スペシャル小学生の大疑問100」という本を読み、「何気ない区別が差別に繋がるという意見もある」ということを知るわけで。世の中表面だけでなく、突っ込んだところまで考えなくてはいけないんだ、色々大変だなぁと思いました。

その後中学校は男女別で、高校では男女混合に戻りました。

12年間の移り変わりを単純にまとめると、別→混合→別→混合となります。そして二度目以降、移り変わる時に意識の上で何か「段差」「断層」の様なものを感じていました。言葉にしづらいのですが。自分自身はもちろん、「学校」という環境自体も変わっていないのに、意識の上で別世界に足を踏み入れた様な。特に中学入学時には、制服やら生徒手帳の「生徒心得」やらのためなのか、変な圧迫感を覚えていました。その後の高校入学時には「あ、’元の世界’に戻ってきた」という感覚がしました。

意識面での影響は一度置いて、単純に機能面でのそれぞれの長短を挙げてみると以下のようになります。

男女別名簿のメリットは

  • クラスの男子・女子の人数がすぐわかる
  • 健康診断の時、自分が何番目かすぐわかる 

逆にデメリットは

  • クラス内に同じ番号の人間が二人いて、ややこしい(例:男子の5番と女子の5番)

ですね。

男女混合名簿のメリットは

  • クラス内にその番号の人間は一人しかいない

デメリットは

  • クラスの男女の人数がすぐに出てこない
  • 健康診断の時、自分が何番目かわからない

ということです。

混合名簿の2番目のデメリットを理由に、混合名簿を廃止しろ!という主張もある様ですが、それは極論というものでしょう。自分の直前にいるのは誰なのか、把握していれば問題ないのですから。むしろ、出席をとるたびに毎度毎度男子が先、という状況が10年以上続く方が、意識の上で悪影響ではないかと思います。現に「いつも男子が先でずるい!」と思っていた人もいる様です。小一の頃の私が気にしていなかったのは、第一に幼くてそこまで頭が回らなかったから、第二にいつも男子が先!にならない様、担任が配慮していたのが大きいのではないかと考えています。