美術の教科書を振り返る

昔使った図工や美術の教科書には、同世代の表彰作品に混じって、過去の巨匠達の傑作が載っています。水彩画・油彩画・彫刻・版画・立体造形・etc…

しかし、思い返してみるとこれが「生徒が理解すること」を考えていない内容でした。作者名・タイトル・制作年・画材はわかるのです。書いてあるから。が、それ以外、「何を表現しているのか」がタイトル以外、手掛かりがないのです。例えば「〇〇の肖像」とあっても「この人、こんな顔だったんだ」でオシマイ。つまり、タイトルを見て、一度は「ああ、そう」と納得した様な感じはするのですが、それ以上頭の中に入ってこない。分かったような、分からんような不思議な感じがしていました。描かれている周囲の物にも何か意味があるのだろう、と思ってはいたのですが、教科書のどこにも解説がない。納得のいかないモヤモヤが溜まる一方なのです。そこに「芸術は高尚だ!」という信念を丸飲みさせられているという不快感がありました。「知識なしで、感性のみで絵を見る」とこうなってしまいます。

成人してから、あちこちの美術展に行く様になったのですが、やはり脳内が不完全燃焼を起こしていました。分かったような分からんような、あのイヤな感覚。このままじゃいけない、美術書を買って勉強しよう!と思ってみても、どんな本を買ったらいいのかもわからない。ので、先に進めなかったのです。

教科書掲載画の中でも、ぶっちぎりの訳わからんNo.1がファン・エイク作「アルノルフィニ夫妻の肖像」でした。(確か中学の教科書掲載)

アルノルフィニ夫妻

なせか?タイトルがほとんどヒントにならないのです。「夫妻の肖像」なので、絵の中の二人は夫婦だ、とはわかるのですが、ただそれだけ。せいぜい妻のお腹が出ている、妊娠中かな?くらいです。当然、画中に何か文章が書いてあることにも気づいておらず。周りに色々描いてある色んな物も、みんな単なる「背景」としてしか受け取れない。

わからん!の塊のこの絵をバッサリ解説してくれたのが「怖い絵2 中野京子 朝日出版社」でした。散りばめられた様々なシンボルの意味・書かれた署名の意味がサクサク分かって、とても爽快でした。妻の腹部が大きく見えるのは、妊娠ではなく流行のファッションだ、ということもわかりました。「あぁ、そうだったのか!」と。また夫の顔立ちに対しての

召喚された魔術師

という表現は、実にぴったり。読んだ瞬間、内心吹き出しました。

著者が「怖い絵」シリーズを書き出したのは、「感性で絵を見る」ことに偏っている日本の美術教育に対する不満がきっかけであった、と言います。確かに感性で見ていると印象に残らないし、例の「分かったような分からんような」あやふやな感じで終わってしまい、「芸術は難しい」と敬遠のきっかけにすらなってしまいます。

せめて、美術の教科書に「絵を読む」ための基礎知識を、少しでいいから載せていれば違うのでは?、と思います。例えば、

  • 西洋画は、東洋の花鳥画とは全く見方が違う
  • 絵にはヒエラルキーがある
  • 肖像画は2割増し
  • 画中画はヒント

みたいに。他にも、絵の中に文章が書かれている場合は、抜き書きして翻訳を載せるとか。アトリビュートなんて定期テストと相性が良さそうだから、教えやすいのではないでしょうか?

画像引用:西洋名画の楽しみ方完全ガイド 監修 雪山行二 池田書店

漫画版ナウシカの道化師

映画版よりも深く重いテーマと、広大な世界を描いたと名高い漫画版・風の谷のナウシカ。私も大好きです。今度歌舞伎になる様で。初めて目にしたのは小学校高学年の頃、従姉妹の部屋にてパラ読み。本格的に読み込んだのは中学生の時でした。夢中で読みましたが、あることが心に引っかかっておりました。

それは、トルメキアのヴ王に貼り付いている道化師。特徴をまとめてみるとこんな感じの人です。

  • すごく背が低い
  • 自分より醜い者を見て嬉しがる
  • 鈴のついた縞模様の服を着ている
  • 王様に皮肉言い放題 でも罰せられない
  • 最後はクシャナへの王位譲渡の証人になる

この人はなんなのだろう?専属コメディアンみたいなものかと思ってみましたが、何かが違う。ギャグや寸劇を演ずるわけでもなく。そもそも、なぜこんなに背が低いのか。考えても全く分からない。リア王にも出てきた道化。やっぱり王様に対して皮肉言い放題、でもお咎め無し。一体道化とはなんなのか、しっかりした説明がどこにも見当たらないのです。

この謎を解いたのは、「怖い絵2」を始めとする中野京子氏の著作でした。彼ら道化師は「慰み者」と言われ、召使いというよりペットの様な存在だった。心身に障害のある人が大半(小人症・巨人症など)で、彼らは王侯貴族から「装飾」として「ステイタス」として「富の誇示」として、また「引き立て役」「慈悲深さを演出するため」に集められ養われていた。彼らは人間扱いされていなかったが、それ故に大抵のことでは罰せられなかった権力者を批判しても。それがやがて「道化の特権」となり、知能が正常でも道化になる人が増えた。ということだそうで。

いやはや、衝撃。生きた人間が愛玩物として扱われていたとは。巨人をかき集めた王様がいたことは知ってたんですが、まさか小人まで集められていたなんて。しかし、「障害者はその昔、権力者のペットみたいなものだった」なんて、現代の良識からすると口にすることすら憚られることです。詳しい説明が見当たらないわけです。

これで、疑問は全て解けました。背がすごく低いのは小人症だから。醜いことも道化の才能の一つ。鈴のついた縞模様の服は道化の制服。王様への皮肉は「耳に痛い真実を語る」という大事な仕事。だったのです。

映画「エリザベス」でも似たようなシーンがありました。エリザベスが、豪華なドレスを着た小柄な成人女性(表情が明らかに大人)を抱っこしているシーンです。「侍女?にしては服が豪華すぎるし、侍女を抱っこするのは不自然だな」と思ってたんですが、彼女も「慰み者」の一人だったんでしょう。子供のいないエリザベスの愛玩欲求を発散させるために、小人症のあの人が側に置かれたんだろう、と今となっては推測できます。

「障害者は何をやっても批判されない」というのは、現代でも悪い形で残っている気がします。障害のある人が迷惑行為をしても、なぜか迷惑を被った側がたしなめられる、というアレです。「この子は何もわからないの。怒ってどうするの?」の様に。これはある意味、彼らを人間扱いしてないってことですよね?そして、「自分の立場の強化のために障害者を利用する」というのもやはり残っています。3年前の参院選、「五体不満足」で有名な某氏に出馬要請がきましたが、「わが党は差別しません!」という主張のアリバイ作りに利用されたような感があります。この御仁についてはその内詳しく書きたいです。

蛇足:「奴隷マーケットにおける不具者の値段は、現代のペット市場における珍種と同じく、非常に高価だった」という文、「アルビノのヘビやカメは、ありふれた種類であっても値段が数十倍になる」という話を思い出しました。

参考文献:怖い絵 泣く女篇 中野京子 角川文庫

偉人伝の謎①

前回に引き続き、偉人伝話。

主に小学生の頃に、たくさん偉人伝を読んでました。(半分は学習漫画)で、大量に読み込んでいるうちに、だんだんと疑問や引っ掛かりを感じることが多くなりました。しかもいくら読み込んでも、よく分からない・全然理解できないものばかり。不愉快なモヤモヤが心に溜まっていきました。列挙するとこんな感じ。

  1. シューベルトの死に方が急すぎる。元から体が丈夫でないとは言え、こんなにアッサリ死ぬのか?(食あたりか腸チフスで寝込む→無理して悪天候の中、ベートーベンの葬儀に出席→更に体調悪化し死亡)
  2. チャイコフスキーの人生、女っ気なさすぎ(結婚には失敗、資産家女性からの資金援助はなぜか途中で断る)
  3. ナイチンゲールが「看護婦になりたい」と言った時の家族の反対が激烈すぎ(当時は看護婦=だらしない女性、のイメージがあったとは言えここまでか?)
  4. シューマンが入院した後、自殺未遂を繰り返すに至ったその過程が不明瞭(創作が行き詰まってノイローゼになったのかと思った)
  5. 野口英世が研究していた「梅毒スピロヘータ」という病気の説明が大雑把すぎて意味不明(チフスやコレラの説明文とは明らかに違い、感染経路も症状も全然書かれていない)
  6. ヘレン・ケラーの人生が勉強と講演ばかり。それで人生楽しかったのか?(障害者の恋愛、は時代からしたら難しかったかもしれないが、それで良かったのか?)

これらのモヤモヤ、成人したあたりから、少しづつ溶けていきました。まあ、結論からいうと

性にまつわるエトセトラ

だったのです。具体的にあげると

  1. もともと梅毒、及び水銀療法のため体力がおちていたから
  2. チャイコフスキーはゲイだった
  3. だらしない、とは「性的な意味で」だった(要は娼婦のイメージがあった)
  4. シューマンの精神疾患は、梅毒の末期症状
  5. 梅毒は性感染症のため、子供向けの本では詳しく説明できなかったから
  6. 好きな人はいたらしいが、周囲が(特に母が)引き裂いた模様

ということでした。「偉人伝」ですもの、「聖人伝」ではありませんから。泥臭く生臭いエピソードがあって当然です。しかし1,4,5,が、「梅毒」という一つのキーワードで繋がってしまったのはびっくりでした。どんだけ流行してたんだ。

野口の伝記について:梅毒が説明しづらい病気だとしても、梅毒の説明が不完全だと、野口の功績がうまく伝わらないのでは?「一部の精神疾患は感染症が原因で起こる」ということを発見した功績が。高校生くらいで性教育も絡めて、しっかり教えてもいいんじゃないかと思います。親から苦情が来ても「偉人の生涯について教えました」と言えばなんとかなるかも。

ちなみに、梅毒の説明文は脚注で「梅毒スピロヘータによって引き起こされる、恐ろしい法定伝染病」と書かれていた感じでした。梅毒が「梅毒スピロヘータ」によって引き起こされる、というのは本文中で既に説明されているし、恐ろしいからこそ「法」で「定」められていて、野口が必死こいて研究してるんだろう!もうトートロジー、同語反復のカタマリで説明になっていませんでした。不親切すぎて腹が立つ文章でした。

最近の偉人伝

2年ほど前、本屋の児童書コーナーの偉人伝の区画に行ってみました。「最近は、どんな人が偉人とされているんだろう」と気になったのです。昔とは少し違った角度から選ばれている、という報道もあったので余計に。たしかに、20年程前には目にしなかった人が増えていました。定番のエジソンやナイチンゲールに混じって、ルイ・ブライユやアンナ・パブロワなど。ちょっと立ち読みしましたが、ブライユの伝記、結構楽しく読めました。名前しか知らなかったので。そして「ああ、女性が増えたなあ」などと嬉しく思っていると、意外すぎる名前が目に飛び込んできました。

エカテリーナ2世

瞬間、「時代は変わった!」と直感しました。なぜか?斎藤美奈子の「紅一点論 アニメ・特撮・伝記のヒロイン像 ちくま文庫」によると、「女が偉人になる条件」としては、

  1. 白人女性
  2. 育ちが良くて勉強好き
  3. 性的に貞淑
  4. 有力男性のお墨付きがある
  5. ポジションがわかりやすい

が、挙げられるらしいので。クーデターで夫を帝位から引きずり下ろした後、自ら即位し愛人が(わかっているだけで)12人いたエカテリーナは、二昔前なら絶対に選ばれなかった人なのです。明らかに3.に違反する上、5.のポジションに関しても、見方にとってはほとんど「悪の女王」なのですから。(ポーランド分割・農奴制の強化など)明らかに「魔法少女」でもなく、「聖なる母」でもなく、「紅の戦士」としても半端な人です。その人が「偉人」として取り上げられるようになったのは、時代が変わった証拠の一つかなと思います。1.2.4.はクリアです。貴族の家に生まれた真面目な勉強家で、ピョートル大帝の孫と結婚した後歴史の表舞台に出て、軍人達の支持のもと即位したので。

内容はというと、愛人たちのことは「恋人」とうまくぼかしていました。人数も書かれておらず、名前が出てきたのも二人だけ。後のポーランド国王、スタニスワフ・ポニャトフスキと、クーデターの立役者のグリゴーリー・オルローフだけでした。

蛇足:マリー・アントワネットも取り上げられていましたが、この人って「偉人」なんでしょうか?私個人の主観では「有名人」であっても「偉人」ではない気がします。(悪女でもないですが)前掲書によると「お姫様」の代名詞としてではないか、という分析でした。母親のマリア・テレジアの方が、取り上げる順番が後になってましたが、これって逆なんじゃないか?しかし、マリア・テレジアの伝記、私が小学生の時読みたかったですねぇ。それにしても、親子で偉人伝に取り上げられるってのもすごいな。

読書ノートの思い出

小学校高学年のある日、父から「読書ノートをつけなさい」と言われたことがあります。読書好きだが、読みっぱなしの娘に対して、何か思うところがあったのかもしれません。当時特に反対する理由もなかったので「ま、そんくらいならいっか」と読書ノートをつけることにしました。ちなみに読書ノートは、市販のキャラクターノートに父が線を引いて、書名・著者・出版社の欄を作った自作モノです。

しかしこれはまあ、はっきり言って

大 失 敗

でした。第一に、もうとにかく面倒臭いのです。本を読んだら、ノートに書かなくてはいけないのですから。当時の私は児童書ならかなり早く読めたため、その分書く頻度が増える。というわけで、私の脳内では

読むのは楽しいのだけれど、書くのはイヤ→読みたいんだけど書きたくない

→書きたくないから読まない→でも、読みたい!→最初に戻る

の堂々巡りになってしまい、何も手につかないままイライラしてその場から動けなくなり、結果時間を無駄にしてしまうことが多発しました。

第二に、とにかく書きづらいのです。なぜなら記入欄が狭いから。(これは完全に父の責任)本が挿絵付きだったりすると、「著者」の記入欄に「作:〇〇 △△ 絵:□□ ××」と書かなくてはいけないのですが、そのスペースがギリギリ。特に翻訳物だと文字数が増える上に、訳者まで書かなくてはいけない。当然書ききれません。(例としては作:アストリッド・リンドグレーン 訳:下村隆一、みたいな感じ)

私は当時から学習漫画をよく読んでいたのですが、これが一番の難敵でした。学習漫画には「作者」が複数いるのです。大抵「原作・漫画・監修」と3人いるんですが、やはりスペースに収まりきらない。当時は「原作・漫画・監修」の意味すらわかってなかったので、書き写すのが苦痛でした。しかも「監修」はほとんどが大学の偉い先生で、名前に使われている漢字が難しくて書くのが面倒臭く、場合によっては書けなかったり。(国語の成績が良かったとはいえ、所詮小学生でした)

そもそも、どんな本をノートに書けばいいのか。初回読みの本しか書いてはいけないのか、同じ本を何度も読み返した場合は、その都度書くべきなのか。わからない。父に聞けばよかったんですが、なぜか毎度毎度聞きそびれて、いつもイライラしていました。

以上の理由で、じきに読書ノートには、ミミズののたくったような平仮名での殴り書きや、「〃」の記号が並ぶ状態になり、最終的には放置されました(爆)父は何も言いませんでした。ああ良かった。しかし、父の目的はなんだったのか。いまだによくわかりません。

2年ほど前、図書館から借りてきた読書術の本に「読書ノートはつけるな。面倒くさくて続かないから」と書いてありました。ええ、仰る通りで。もう首がもげるほど頷きましたね。私にとっては、百害あって一利なし。危うく読書が嫌いになりかけました。「読みたいんだけど書きたくない!読みたいんだけど書きたくない!」の状態で動けない苦しさは、もう二度と味わいたくないです。

読んではいけない本 in 図書室

小学校低学年の頃、国語の時間がたまーに読書の時間になることがありました。1時間、図書室内の好きな本を好きに読んでいいのです。本の好きな私にとって、超幸せな時間でした。高学年になると、いつの間にか無くなってしまいましたが。

小学3年時の担任の先生は、マンガが嫌いな人でした。それ自体は個人の嗜好なので別にいい。問題なのは、読書の時間の前にわざわざ「マンガは読んではいけません!」と注意してくること。自分の好みをクラス全体に強要してくるんですよ。私は、先生の言う「マンガ」とはいわゆる「ストーリーマンガ」、DRAGON BALLやSLAM DUNKみたいなものだと解釈していました。その類いのものは、図書室にはない。ないものをわざわざ「読むな!」と言ってくる理由が、わかりませんでした。「先生がなんか意味不明なこと言ってる。ま、気にしないどこ。」と、構わず自分の好きな本を読んでいました。

ら、注意されましたよ。

「その本は読んではいけません!」と。

私が読んでいたのは「学習漫画」。単なるストーリーマンガではなく「学習」漫画。「学習」なのにダメな訳?読んではいけない理由がわからない。そもそも、

読んではいけない本がなぜ図書室に存在するのか?

先生からの説明は何も無し。なので「先生は何か勘違いをしている。私は間違ったことはしていない」と脳内で結論を出し、構わず読み続けました。

そして、注意を無視して読書を続ける私。に対して、やらしいことに先生は私の友達を使って注意してくるのです。「その本読んじゃいけないんだよ」友人達がしつこく迫ってくるのですが、余計意地になって読み続けました。「読んじゃいけない本がなぜ図書室にあるんだ!校長先生がオッケーのハンコを押したからだろ!図書室にある本は読んでいいんだよ!何でみんなわからないんだ!」(内心絶叫)もう情けないやら理不尽やら、本の内容と相まって最終的には半泣きで読んでいました。

私はどうすればよかったか?一番無難なのは「図書室中の学習漫画をゴミ箱に放り込む」ですかね。「読んじゃいけない本が図書室に存在するのは、おかしい。だから捨ててあげた」と言えばまあ、筋は通っていますし。親呼び出しになっても、私は別にいいので。

しかし校長先生が購入・設置を許可した本を、平担任ごときが勝手に規制するのは越権行為では?

ちなみに、私が読んでいたのは「学習漫画 世界の偉人 マザー・テレサ」です。そんなにヤバイ本ですかね?

「はだしのゲン図書室撤去騒動」を聞いて思い出しました。

自分の読む本は自分で決めるものです。結果トラウマになっても、それは自己責任(経験有り)。そもそも、学校の図書室には有害図書も18禁もありません。そこまで予防線を張る必要はないのでは?

痴漢考

 あれは確か高校二年の時だったか、学年集会で一学年全員(約300人)が体育館に集まった時、ふっと思ったのです。

この場の男子(約150人)のうち、将来何人が痴漢で捕まるのだろう、と

本当に自然にふっと頭に浮かびました。誰かの入れ知恵では当然なく、私は男性憎悪者ではないはず、なのに。

一日数十件の痴漢事件が日本全国で発生しているのだから、将来的に同学年のうち一人二人は捕まってもおかしくないよな、というある意味単純な推測でした。

最近の調査で、「痴漢の大半は普通のひと。フツーに4大卒リーマン、ふっつーの妻子持ち」ということが明らかになりました。つまり、私の考えは極端ではあるものの「当たらずとも遠からず」だったということです。

蛇足:この考えを家人に話したところ、「怖い!怖いよ!黒すぎ!何その考え!イタリアンジョークかよ!」という強烈な反応が返ってきました。そんなに変ですかね?それにイタリアンジョークってこんなんなのでしょうか?

嬉しくなかったプレゼント

皆さんは、嬉しくないプレゼント、もらったことがありますか?私はあります。

あれは小6進級時のことでした。両親が満面の笑みで「進級おめでとう!プレゼントだよ!」と渡してきた、それは「マンガ 日本の歴史 全22巻セット」。ですがはっきり言って

まーったく嬉しくなかった

「今更なんだよ、遅いよ」とすら思いましたね。口にも出しました。とにかく不愉快で、ずーっとブーたれていました。なぜか?

すでに学校の図書室で読み終えてしまったから。2年弱かけて。

続巻がないことに苛つきつつ、図書室内で探したり返却を待ったりして、2年弱かけてようやっと読み終わった。そのことに一種の達成感すら覚えていた。そこに「プレゼントだよ★」といきなり全巻を投げてよこされた訳で、それまでの自分の努力を全否定された気がしてしまったのです。「あの2年弱の苦労はなんだったんだろう、と。どうせなら世界史や中国史が欲しかった、というのが本音でした。

そして不快感に輪をかけたのが絵柄。「マンガ 日本の歴史」は当時絵柄が2種類あったのですが、よりにもよって私の苦手な絵柄の方だったのです。偶然とはいえ、これはないだろう…両親は知らなかったとはいえなぜわざわざ….ほんのり絶望してました。

せっかく両親がくれたんだから、と付き合い&義理でざっと目を通したのですが、やっぱり面白くない。ストーリーは知ってる上、新たな発見がある訳でもなく。おまけに絵柄は苦手だし。にも関わらずこのセットは、それから10年弱、我が家に鎮座していました。読むものが何もない時にパラパラめくってみる、という存在でしたが、はっきり言って時間の無駄だったな、と今となっては思います。目を通した後は、とっとと古本屋に売るべきでした。なぜ売らなかったか?というと、当時の私にとって古本屋は馴染みのない存在でしたし、「両親からのプレゼント」ということが引っかかって処分ができませんでした。

そしてその後、色々なマンガを読み込んでいくうちに、「マンガ 日本の歴史」の漫画表現そのものにも違和感を覚えるようになりました。マンガ、という形を活かしきれてないんじゃないか?と。

一例を挙げるなら、尾崎咢堂の桂内閣弾劾演説の描写です。「マンガ 日本の歴史」では、争っている二人を遠くから描いている、カメラでいうならかなり引いて写している状況で、実に迫力に欠ける描写。言論の力でもって内閣が倒れた、記念すべき出来事なのだから、もっとドラマチックに描くべきでは?

例えば、金田一少年的に描いてみる、とか。カメラを尾崎目線にして、尾崎が「あなただ!」と桂首相を指差すシーン、ズームにした桂首相の周りにベタフラッシュ。首相の顔にはタテ線を引いて顔面蒼白ぶりを表現。のようにしてみたら、もっと迫力が出るのでは?(なぜか私の脳内では、池田理代子的な絵柄で展開されました)どなたか描いてくれませんかね?結構いい感じになると思うのですが。

活版印刷の第一印象

グーテンベルクの活版印刷のことを知ったのは、小学5・6年くらいの時でした。図書室で読んだ「マンガ 世界の歴史」みたいな本で。そしてその第一印象は、

そんなに便利なものなのか?

でした。「すっごーい!!」と素直に褒め倒す気分ではなかったことを、覚えています。

確かに、画期的です。いちいち人が書き写さなくてもよくなったのですから。そのため本の値段が下がり、大衆に知識が、聖書が行き渡った。そしてそれが、ルターの宗教改革を生んだ。歴史を大きく動かす原点になった、のはわかるのですが、そこまで褒め倒すほどのことなのかと。

そもそも面倒でしょう。

ひらがな・カタカナだけで100文字もある!

漢字を部首ごとに分けて作ったら、さらに数が増えちゃう!

そう、私は日本語で考えてしまっていたのですヨーロッパはアルファベット表記なので、26文字のセットがいくつかと、よく使う文字だけ追加で作ればそれで事足りる訳で。確かに調べてみると、活版印刷自体はグーテンベルクよりかなり前に中国で行われているのですが、大量の漢字の活字を作るのが大変だったため、あまり広がらなかったらしく。(これは日本も同様)素晴らしい技術があっても言語構造がその普及を阻むこともある、ということでしょうか。そして不思議なのは、活版印刷とは縁遠かった中国・日本の方が、出版点数では常にヨーロッパを上回っていた、ということです。技術があったから、本が増えた!というほど単純な状況でもないようです。

蛇足:活版印刷と宗教改革のコラボにより、聖書の中身が人々に広まったのはとても良いことです。が、一緒にユダヤ人差別まで広がってしまった。禍福は糾える縄の如し、と言いますが、禍が予想より深刻でした。